【知道中国 1169回】                      一四・十二・仲三

――「塵糞堆ク足ヲ踏ムニ處ナシ」(納富4)

「上海雑記 草稿」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年)

 

上海上陸後には各地を歩き、その見聞を記録し、「探偵ノ一助ニ備ヘ奉ラバ官ノ御爲ニ何ゾノ寸益ニモナルベキ」と、納富は考えていた。だが上陸直後に病を得てしまい、当初の計画が果たせない。情けなく口惜しいと思っていた。ところが、太平天国の乱を逃れて多くの難民が上海に押し寄せる。「ソノ中ニ書生數多クニテ、皇邦ハ諸外夷ト異ニ聖敎ヲ崇ビ文字明ラカナリト聞イテ、樂シミテ我輩ヲ來リ訪ヒ、詩畫筆語等ニテ自ラ親シクナリ聞出スコトモ少ナカラス」。幸運にも情報が向こうから跳び込んで来た、というわけだ。

 

加えるに「我中牟田倉之助、長州ノ高杉晋作、會津ノ林三郎、遠州ノ名倉予何人、大阪ノ伊藤軍八、尾州ノ日比野掬治本ト書生ナレバ、就中筆語能ク通ゼリ」。「我山崎卯兵衛、深川長右衛門ハ書生ニハアラネドモ、通辯早ク馴レテ、官府ノ事商法等ハ精シク聞取ルコトヲ得ラㇱム」。

 

ここで「最モ意外ナリシハ」と「薩州ノ五代才助」に筆が及ぶ。彼は「初ヨリ水手ニ身ヲ窶シ船底ノミニ居ラレタレバ」、誰も気にしなかった。ところがソッと抜け出して遠く足を延ばし、「浦東アタリノ長毛賊ヲ剿攻アリシ合戰ヲサヘ見テ歸ラレシ由、コノコト誰モ知リタルモノ無ク」、長崎に戻って初めて知ったとか。

 

かくて納富は、「此度同船數十人ノ銘々見聞セシコトヲ皆集メテ大成セバ、頗ル益アルコトモ多カルベキニ、余ガ微力ノ及ブコトニアラザルハ歎ズベキコトナリ」と猛省する。ともかくも「同船數十人ノ銘々」はそれぞれが得意の分野で情報収集に努めていたということだが、それにしても当時の清国側知識人難民の中には「皇邦」を「諸外夷ト異ニ聖敎ヲ崇ビ文字明ラカナリ」と見做すなど、素直さと謙虚さが認められて些か好感が持てる。やはり横柄で尊大な態度はイケマセン。であればこそ、「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢の実現」などと浮かれ返っている今こそ、「中国は永遠に謙虚であらねばならない」「大国は小国を愚弄してはならない」との毛沢東の訓えを拳々服膺すべきだろうに。判っているか!おいッ、習近平!!!

 

上海には欧米諸国から貿易を求めて多くの船舶がやってきて商売は賑わっているが、「タゞ書畫ト文房ノ具ノミハ諸夷ノ目ヲ掛ケザレバ」、書画筆墨商人は開店休業状態だ。そこで唯一「書畫ト文房ノ具」に理解と興味を示す日本人のところに数多くの「掛軸幅古器ナド」を持参し商売に励む。口を開けば「これ本ものアルヨ。安いアルヨ」の連発だったはず。いずれ源頼朝、あるいはナポレオンの幼少時のシャレコウベの類だろうが。

 

ところが「固ヨリ僞物ノミ夥シクアルヲ、カツガツ嫌ヒテ退クニ、彼強ヒテ眞物ナリト辯ジ勧メケレバ、日本人ハ皆眞眼ヲ具セリ、汝等欺クベカラズト云ウ」と、最終的に彼らは品物を畳んでスゴスゴと帰って行く。「日本人、敵わないアルヨ」とでもいったのか。それでも「眞物ナラバカクノゴトキ廉價ニ非ラズト、有リノ儘ニ云ヒタリシ」と。さて捨て台詞は「本モノ、こんな安くないアルヨ」だったろう。ニタニタと愛想笑いしながら。

 

誰が見てもニセモノと判っていながら、飽くまでもホンモノだと言い張り売りつけようとする図々しさ。一転、ウソがバレルとあっけらかんと白を切る惚けぶり――十年一日ならぬ百年、いや千年万年一日ぶりは民族のDNAとしかいいようはない。かつて周恩来は「中国人はウソをつかない」と大見得を切ったことがあるが、これ程までに信用できない台詞はないだろうに。

 

祖先伝来の逸品を売りその日を生きる難民もいる。誰もが「定メタル住居ナク、或ハ路傍ニ佇ミ或ハ船ヲ栖家トシ雨露ニ濡レ飢渇ニ困シミ、タゞ一日々々ノコトヲ計ルノミ。ソノ命懸絲ノ如シ。憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」。嗚呼、「憐レムニ堪ヘザル衰世ナリ」。《QED》