【知道中国 1024】     一四・一・仲七

 ――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の10)

 「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 大企業のオーナー社長から街角の商店主まで、自らの商才と汗と涙で蓄えた全資産をタダ同然に巻きあげられながら、「大きな希望をもって公私合営から、完全な社会主義への道を進んでいる。・・・労働者階級の仲間入りする光栄ある道を歩んでいる」などと信じ込んでいるわけがない。それがヒトとして本然の姿だろう。にもかかわらず、こういった見え透いたウソを口にするということは、かの民族得意の面従腹背術か、そう信じた風を装わなければ何をされるかわからないという恐怖心に駆られた集団的自殺行為か、あるいは後先考えない熱狂的宗教心ということか。おそらく恐怖心と宗教心とが重なったに違いない。

 まさに当時の中国は、社会主義化を目指していたとはいうものの、実態は恐怖心に覆われた毛沢東教カルト国家、いうならば客観情況を頭から否定し、頭のなかに妄想した社会主義社会に盲進しようとする妄執に駆られた毛沢東を教祖とする巨大宗教国家だったということだ。

 こう考えれば、「中国では、あらゆる企業が国営か公私合営だ、公私合営の企業は利潤の四分の一が資本家にあたえられ、四分の三は政府の収入になる」という本多の言い分(正確には本多が受けた説明)が如何にインチキであったかが判るはずだ。収入は基本的に全部が「政府の収入になる」。であればこそ、確かに「あれら全国の企業からあがる政府の収入は莫大な額にのぼる」のも当たり前ではないか。

 話を合作社に戻すが、本多は「六畳敷き位の、床に木の張ってない、粗末な小屋」でしかない合作社の応接間で、「どう見ても農業合作社の備品にふさわしからぬ」豪華な調度品を見て、土地改革の際に地主から取り上げて農民に分配された「勝利果実」の「一種じゃあるまいか、と考えていたのだが、そのとき、一毛作しかできなかった土地が『解放』後に三毛作が可能になったという話をきいて、なにか急に諒解の扉がひらかれた」と綴る。

 「解放」の前後で一毛作が三毛作に。単純に考えれば収量が3倍だ。こんな荒唐無稽なバカ話を信じ込むとは、さすがに本多ならではである。

 続けて本多は、「重慶の土地をはじめて踏んで、飛行場から市街地へ入って来る途中、漠然と感じたある感じ――はたらく人たちが、どうも少し本気ではたらきだしたらしいぞ、六億の人間が少しずつ本気ではたらき出したら、これはどえらいことになるのじゃあるまいか、と漠然ながら強く感じた、あのときの感じとソレとが結びつくのを感じた」そうだ。

 なにやら「感じ」が多すぎる感じの文章だが、次のように結論づける。

 「つまり、無名の農民たちの間に、あきらかに積極的な『慾』がめざめた証拠とソレとが結びつくのを感じたのである。そして、中国政府の『富の秘密』の少なくとも一端はこの辺にある、たとえば税率はさげたにしても、それなら国庫収入はふえるはずだ、と素人考えに考えた」

 土地改革によって地主から取り上げた土地を共産党政権から分け与えられ、それを「無名の農民たち」は自分のものとして、「あきらかに積極的な『慾』」によって働きだし、一毛作を三毛作にも増産させた。「それなら国庫収入はふえるはずだ」――こう思い込んだ本多は、その先の社会主義社会を妄想してみせる。

 「徒手空拳の農民に土地をもたせ、彼らを一個の小生産者に仕立て上げただけでは社会主義の意味がない。農業経営は、(集団化へ)強行的にでも組織をすすめて行かねばならない。いま中国農村の問題は、最低限に見積もったとしてその段階にあるらしい」と見做しながら、遂には当時の中国が「土地改革を底辺とした革命の初期段階の成功」に達したと、革命家のような妄言を綴る。どうしようもなくデタラメな妄想家。それが本多だ。《QED》