【知道中国 1025】                       一四・一・仲九

――「中国政府はなぜこれほど金持なのだろう?」(本多の11)

「重慶の印象」(本多秋五 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

どうやら本多は「土地改革を底辺とした革命の初期段階の成功」した中国は、次の段階として集団化を積極的に展開し、「社会主義の意味」をあらしめる方向に進むべきだと確信していたらしい。くわえて「革命の初期段階の成功を、いまどき疑うものは、台湾政府とその加担者以外にはいないらしい」と記しているところから判断して、中国側の説明を完全に鵜呑みにしているということだろう。そればかりか、「私はもはや自明の事柄をおくれ馳せに納得したにすぎないらしい。しかし、それでもなお且つ、私はここでの見聞に感動し、来てみてよかったと、思った」と恍惚気味に語る始末である。

 

これが当時の日本の“革新勢力”の標準的思考傾向なのか。恋は盲目で、アホは無定見。もはや自分の頭で考えることすら放棄しているわけで、呆れ返るしかない。つまり本多は、毛沢東が強行した社会主義化路線――農村では土地改革と農業の大型集団化、都市では公私合営による私企業の根絶――を全面的に支持するわけだ。土地改革が地主から土地を、公私合営が経営者から資産を暴力と恐怖で巻き上げたというのに、である。

 

ここで、改めて50年代の毛沢東主導の社会主義化路線を簡単に振り返っておきたい。

 

建国された49年10月1日の前々日に当たる9月29日、北京では共産党と民主諸党派、人民解放軍、各民族、海外華僑らの代表635人が集まり中国人民政治協商会議第1回総会が開かれ、新しい国家の基本方針として、政治的には新民主主義、経済的には「公私兼顧、労使両利、城郷互助、内外交流」の原則を謳いあげた「共同綱領」が採択されている。政治は労働者階級が指導するも、「民主諸階級と国内各民族を結集した人民民主独裁」であり、経済は私企業にも配慮し、労使が協調し、都市と農村が助け合い、海外との交流も進める、というものであった。これが中華人民共和国の国是だったはず。じつは共同綱領には、現在に続く共産党独裁の「き」の字も、社会主義の「し」の字も書かれてはいないのである。

 

だが、それが毛沢東には大いに不満であり、断固許せなかった。せっかち極まりない彼は抵抗する一切の勢力を押し退け粉砕し、しゃにむに社会主義化路線を突っ走ってしまう。

 

50年に勃発した朝鮮戦争という禍を転じて福となし、一気に国民的一体感・求心力を醸成し、その勢いのままに51年10月には反汚職・反浪費・反官僚主義を掲げる「三反運動」を展開し、商工業者(彼らを「建国以前からの商工ブルジョワ階層」と呼んだ)と結託して甘い汁を吸っているという理由で、共産党内部と国家機関(党と政府)など公的機関の工作要員、具体的には国民党政権以来の「流用人員」を摘発した。

 

次いで52年年初からは、商工業者に対し、贈賄反対、脱税・漏税反対、国家資産の横領反対、手抜き工事と資材の詐取反対、経済情報の窃取反対(五反)の闘争を大規模で大胆で徹底して展開し、「三反運動」と連動させることで、党内外の異端分子と商工業者の根絶を図った。いわば公私合営という政策は「三反・五反運動」の延長線上に位置づけられた策略であり、これによって都市では私企業は壊滅状態となり、社会主義化路線が確立した。

 

一方の農村では、土地改革によって郷紳(=地主)の根絶を通じ郷紳を頂点とする一種の互助組織でもあった伝統的共同体を破壊し、共産党以外の一切の組織の存在を許さず、集団化された合作社(後に人民公社)を通じて1人1人の農民を徹底管理することになる。

 

公私合営で都市商工業者の、集団化で農民の、さらに本多が訪中した57年の反右派運動で知識人の――社会を構成する人々の共産党に対する批判の声は完全に封殺され、毛沢東の個人独裁が冷徹に冷酷に徹底化するのであった。

 

にもかかわらず本多は、「中国はいま一種壮大なルネッサンスに見舞われている、ともいえる」と。いったい彼の眼は、どこについていたのか。無知蒙昧は犯罪でしかない。《QED》