【知道中国 1026】 一四・一・念二
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の1)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
フランス文学者・文芸評論家としての中島健蔵(明治36=1903年~昭和54=1979年)の事績については、ついぞ知らない。だが、所謂「日中友好運動活動家」として果たした役割については、些かなりとも承知しているつもりだ。
かつて見た文革最盛期の国慶節の記録映画の記憶から、毛沢東登場のクライマックス・シーンで、毛沢東と同じく天安門の楼上に立つものの、さすがに毛沢東と並び立つなどという椿事はなかったが、天安門広場を行進する大パレードの歓呼に応え、手を振り拍手する中島の姿が思い出さる。そのシーンからだけでも、中国側が中島を如何に重用していたか。つまるところは中島が重宝がられていたかが、判ろうというもの。やはり中島こそ、「子々孫々の日中友好」という政治運動にとっての日本側のキーマンだったのだろう。
まず中島は「一九五七年の秋は、日本と中国との関係が、よくなるか悪くなるかの境目にあたっていた」と切り出す。そのわけを、「もしも日本人の大多数が、本気で新しい日中関係をうち立てようと望んでいたら、そして日本の政府がそれに応じて、積極的な努力をしていたら、おそらくは、のぼり坂の友好関係がよい果実を結んだかもしれなかった」とする。
そこで当時の日中関係を簡単に振り返ってみておきたい。
56年11月に周恩来は日本人記者団に対し、①民間交流による積み上げ方式、②民間通商代表部の相互設置、③航空機の相互乗り入れ――を説き、明けて57年1月4日の北京放送は「(両国の)戦争状態は解消されていないが、最近になって両国関係は日増しに発展している。この発展は正常関係回復に役立ち、如何なる外部の力をもってしても拒むことはできない」と報じた。どうやら両国関係は、北京ペースで進んでいたようだ。
当時の政治情況だが、中国側は反右派闘争を経て毛沢東の独裁体制がいよいよ確固とした形を整えつつあり、日本ではソ連と中国の共産党政権に接近していた鳩山政権から石橋政権(54年~57年2月)への時期に当たる。ところが石橋は病気で政権を手放す。後任として首相の座に就いた岸信介は、親米路線を打ち出す一方、57年6月に日本の首相としては初めて台湾を訪問し、「日本と台湾との真の提携がアジアの安定と世界平和のために必要だ。中国大陸は現在共産主義に支配されており、中華民国が困難な情況にあることは同情に堪えない。この意味で大陸を回復することができれば私としては非常に結構だ」と、蔣介石の悲願であった大陸反攻を大いに後押ししたわけだ。
この岸の発言に蔣介石は小躍りして喜び、毛沢東・周恩来は激怒したことだろう。
57年4月、社会党訪中団団長として訪中した浅沼は中国側の外交学会長との間で両国の民間協定を政府間協定に発展させる旨を強調した共同コミュニケを発表したものの、さすがに台湾で岸首相が示した大陸反攻支持への明確な姿勢は中国側を大いに刺激する。周恩来は訪中した日本民間放送代表団などに対し、「数年来好転している中日関係は、岸内閣が成立して以来逆戻りした」と、強い苛立ちを隠さなかったのである。ちなみに、かの有名な浅沼の「アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなしてたたかわなければならない」なる発言は、2年後の59年3月の訪中時に北京でなされたもの。長い講演を浅沼は、「躍進中国の社会主義万歳(拍手)。中日国交回復万歳(拍手)、アジアと世界の平和万歳(拍手)」と絶叫して結んだ。ヤレヤレ、である。
やや時計の針を戻すと、55年11月に訪中した日本憲法擁護国民連合訪中団団長の片山哲と周恩来との話し合いの結果、国交回復の前提として文化協定が結ばれたが、その協定に日本側でも新しい連絡機構の設置が約束されている。そこで片山らが中島に対し、「国内連絡機構の構成を手伝うようにとの意向を伝えてきた」というのだ。《QED》