【知道中国 1027】    一四・一・念三

 ――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の2)

 「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 中島の主張を追いかけはじめた折も折、興味深い2点の資料に接した。当時の日中関係を知るうえからも重要と思われるので、取り急ぎ、それらを簡単に紹介しておきたい。

 1点目は昭和36(1956)年10月7日の「朝日新聞」だ。「首相の立ち寄りを望む」との毛沢東の発言を見出しにした囲み記事が紙面中央にあり、折しも北京で行われていた第一回日本商品展覧会の会場に現れた毛沢東の写真が添えられている。ここで毛沢東発言の「首相」は鳩山首相のこと。じつは同じ7日、重光外相、河野農相などを伴い鳩山日ソ交渉全権団が羽田からモスクワに向かっている。「民間団体の交流ではなく、モスクワからの帰路に北京に立ち寄り両国首脳間で日中国交の本格交渉を」というのが、毛沢東の狙いだろう。

 モスクワでは、河野とフルシチョフとの間で北方領土問題を中心に丁々発止の交渉が前後3回。日ソ共同宣言が発せられた19日には、ポーランドの統一労働者党内紛争鎮圧のためにフルシチョフ、ミコヤンなどソ連首脳陣はポーランドに向かっている。23日にハンガリー動乱が勃発し、29日にイスラエル軍がシナイ半島を急襲し第2次中東戦争(スエズ動乱)の戦端が開かれ、翌30日に英仏連合艦隊が地中海に展開している。

 鳩山首相一行は、ソ連軍がハンガリーに武力介入した11月1日に帰国し、2日後の11月3日には、鳩山首相が政界引退を表明した。

 もう1つは、30㎝×40㎝ほどの大きさで表紙の中央に「日本商品展覧会在北京」、その下に「中国国際貿易促進委員会」の金文字が記された写真集である。表紙を開くと、「日本展覧会を参観して素晴らしいと思った。日本人民の成功を祝賀す」との毛沢東の、次のページには「展覧会の商品はどれも素晴らしい。人民の新たなる成功を祝賀す」との朱徳の揮毫が続く。

 写真集といっても印刷されたものではなく、毛、朱に加え劉少奇、周恩来、彭真、陳雲など当時の共産党首脳陣の会場参観風景を写した写真を1枚、1枚張り付けてある。「両国の経済貿易関係をさらに一歩進めよう」「両国人民の友誼万歳」などのスローガンが掲げられた会場には耕運機、旋盤、印刷機、揚水機、自動織機、掘削機械、フォークリフト、トラクター、オート三輪者など、当時の日本産業の粋を集めたと思われる品々が展示され、共産党首脳陣が熱心に参観する姿がモノクロの写真に生き生きと捉えられている。

 数えてみると540を超すブースが設けられ、それぞれに「松川式自動織機」「第一通商」「利根ボーリング」「小松製作所」などの看板が掛けられているが、出品した日本の企業名だろう。耕運機などは実際に農場で動かし、中国側関係者に性能を見せているシーンもある。おもちゃのブースに集った子供たちは日本のラジコンカーに目を輝かせ、若い娘は最新ファッションに羨望の眼差しを隠さない。当時の北京の総人口260万人のほぼ半数の126万人が会場に押しかけた。「朝日新聞」は会場の盛り上がりを何枚かの組み写真で報じていたが、見出しは「街はちょっとした日本ブーム」。

 日ソ関係の進展、東欧での思いがけない大混乱、毛沢東の鳩山首相向けの発言、そして日本商品展覧会――こうみてくると、当時の日中関係の概要が浮かんでくるようだ。ある面からいうなら、日中双方が極めて接近した時期といってもよさそうだ。

 ところで、この写真集だが表紙の裏側に墨痕鮮やかに「池田正之輔先生恵存」の文字が記されている。おそらく主催者である中国国際貿易促進委員会が池田正之輔に記念品として贈呈したものだろう。「池正」こと池田正之輔(1898年~1986年)とは、“暴れ者”で知られた新聞記者出身の自民党代議士。対ソ、対中関係のフィクサー役として振舞っていた。

 このような時代に、中島は日中文化交流協会理事長として登場したのである。《QED》