【知道中国 1028】      一四・一・念五

 ――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の3)

 「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「ヨーロッパ、特にフランスの文化を学んできた一人であ」り、「中国については、あまり知識を持たず、また、生まれてから一度も中国を踏んだことがない」。加えて「ほとんど全く、中国に知人を持っていなかった」中島だが、1956年3月23日に日中文化交流協会理事長に就任し、それから1年半ほどが過ぎた「一九五七年の一一月六日夜、自分としてはなんの屈託もなく、羽田空港から日航機で出発したのであった」。因みに中島の理事長就任の前月、その後の激烈な中ソ対立を誘引した衝撃的なスターリン批判が、モスクワでフルシチョフによって秘密裏に行われていた。

 理事長就任から初訪中までの1年半ほどの間に毛沢東の「(鳩山)首相のたち寄りを望む」との発言があり(「朝日新聞」56年10月7日付)、東欧の混乱があり(56年10月~11月)、台湾を公式訪問した岸首相の蔣介石支援発言があった(57年6月)。目を中国国内に点ずると、毛沢東が呼びかけた百花斉放・百家争鳴運動(56年4月)と「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」と題する講演(57年2月)に誘われ民主諸党派・知識人・学生からの痛烈な共産党批判が噴出。これに慌て激怒した毛沢東は、彼らをブルジョワ右派と糾弾し、全国的に反右派運動を巻き起こし攻勢に転じた(57年6月)のである。

 まさに中島訪中の時期は、中国国内では驚天動地の反右派闘争真っ最中。にもかかわらず、いやもちろんというべきだろうが、中島が反右派闘争に言及することなどありえない。

 「そそくさと羽田空港から飛び出して、香港でひと休みと腰を落ちつけたところへ連絡があって、すぐに国境を越えて、広州から空路北京へ来てくれという。広州に一泊、翌朝出発、夕刻北京着」。これが中島の訪中のはじまりだった。

 ところが北京にいってから「すぐに日本文学代表団の諸君と落ち合い、翌日、日本文芸家協会と、中国作家協会との文学交流に関する共同声明の調印に参加、文学代表と別れて、対外文化協会、作家協会、体育総会、撮影学会(摂影学会という)、文字改革委員会、音楽家協会、北京放送局、それに映画関係、科学院などの然るべき人たちと会談。途中、天津に行っただけで、そのまま広州を経て出国」。

 中島は「二週間でこんなに目まぐるしい日程」だったと綴るが、その背景には、反右派闘争が絡んでいたはずだ。彼が交渉した中国側機関でも激烈な反右派闘争が展開され、会談相手である「然るべき人たち」の中にも遭えなくも右派と断罪され、過酷な人生を余儀なくされた人々もいたはずだ。

 じつは中島訪中の3ヶ月ほど前の8月4日、毛沢東に指名され反右派運動の指揮を任された鄧小平・共産党総書記(当時)の指揮の下、中共中央はさらに大衆を全国規模で大量動員し徹底した右派分子狩りを進めると共に、「新聞・雑誌上で極右分子として批判する人数を、極右分子の20から50%にまで増員し、広範な大衆の教育に役立てよ」と、反右派闘争を農村にまで拡大することを厳命したのだ。かくして共産党に煽動された大衆運動の理不尽極まりない怒涛のような暴力に、知識層は怯え、やがて毛沢東(=共産党)に対する批判・抵抗の意思を失ってしまう。当時の日本には伝えられはしなかったが、全国知識分子総数の11%を占めた55万人余が労働改造に送られ、投獄された。刑死・自殺者も。

 反右派闘争は農村での指導者層(地主)を解体した土地改革、都市での私企業経営層を壊滅状態に追い込んだ公私合営に次ぐ社会主義化政策の第3弾であり、これによって中国のエリートは精神的に去勢されてしまい、かくて毛沢東(=共産党)による独裁は完成の域に達したのである。

 中島が会談した「然るべき人たち」は、かくも過酷で残酷な政治環境を生きていた。《QED》