【知道中国 1029】     一四・一・念七

 ――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の4)

 「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 反右派闘争では抵抗すれば投獄され、一生拭い去ることのできない「右派」のレッテルを貼られ、余生は犬畜生以下の生活を強いられる。闘争で「右派」と断罪された55万人の知識分子のうち、僅かの9人を除き他の99.99%以上の人は1978年に復活した鄧小平の同意の下に「平反(名誉回復)」されている。だが、闘争を指揮した鄧小平が過去の誤りを悔いたというわけでもあるまい。鄧小平はそんなにヤワではない。とはいえ犠牲者が余りにも多すぎた。それゆえ過去には毛沢東のゴーストライターを務めながらも、林彪事件に連座して失脚した陳伯達は、「反右派(闘争)が後にあれほど拡大したのは鄧小平同志に大きな責任がある」と“告発”する。目糞、鼻糞を笑う。ドッチもドッチ、といっておこう。

 中島が乗った飛行機は57年11月6日夜に羽田を発ち、翌朝7時半に香港の啓徳空港に到着している。今では成田・香港間は4時間前後。なんとも時間がかかったものだが、これが時の流れというものか。

 ところで中島羽田出発の4日前に毛沢東を団長とする中国政府代表団が10月革命40周年記念式典参加のためにモスクワ入りしているが、その2日前の11月2日、ソ連は10月革命40周年に合わせるかのように人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、科学技術の面でも社会主義のソ連がアメリカを凌駕したことを内外に向けて強烈にアピールした。

 毛沢東は21日までソ連に滞在する。ソ連留学中の中国人学生を前に、かの有名な「東風は西風を圧する」と講話したのは17日だった。一般には「東風」はソ連を筆頭とする社会主義陣営、「西風」はアメリカを頂点とする資本主義陣営と見做されがち。だが、国内で政敵を完膚なきまでに圧殺し、完璧な個人独裁体制を布いた頃の毛沢東である。その昂揚していた筈の気分から忖度すれば、やはり「東風」は自らが手中に収めた中国を、「西風」はフルシチョフが率いるソ連を形容していたと看做すべきだろう。

 この時の中ソ両国共産党会談の際、フルシチョフが「ソ連は15年でアメリカを追い越す」と傲然と口にするや、すかさず毛沢東は「ならば中国は鉄鋼など主要工業生産高で英国を追い越す」と応じている。これが翌年に無謀にも強行発進することになる大躍進運動のキッカケともいわれる。いわば大躍進政策は独裁者同士の意地の張り合い、売り言葉に買い言葉から生まれ、中国を大混乱の飢餓地獄に陥れてしまった世紀の大愚策になるわけだ。

 因みに大躍進のスローガンの1つが「超英追美(イギリスを追い越し、アメリカに追い着く)」であった。「超英追美」を掲げてから半世紀余、21世紀初頭の現在、既に「超英」から「超日」を達成し、「追美」に向け“奮闘中“。習近平の口にする「偉大なる中華民族の復興」「中国の夢」は、かつて毛沢東が掲げた「追美」の21世紀バージョンなのか。だが「超英追美」が結果として4500万超の餓死者を出す悲惨な結末に終わったことを考えれば、「偉大なる中華民族の復興」「中国の夢」の末路も想像できないわけではない。

 話が大いに逸れたついでに、この時、毛沢東に付き従ってソ連入りした郭沫若は、帰国後に「毛主席の飛行機中の工作の映像に題して」なる詩を詠じている。曰く、「1万メートルの高い空/104機の機上で/陽光が2倍の明るさになったわけでもあるまいに/機内と機外に、2つの大きな太陽がある」。毛沢東が「永遠に光り輝く太陽」になった瞬間だ。まさにヨイショ。涙ぐましき知的幇間芸としかいいようはない。反右派闘争で毛沢東の知識人狩りの峻厳苛烈さに直面し、その恐怖を味わった知識人にとって、毛沢東独裁体制下で生き残るためには知的佞臣になるしか道はなかった。その典型が郭沫若ということだ。

 以上、「点描・新しい中国」とは直接関係ないような話題を書き連ねてきたが、やはり中島訪中当時の内外情況、国際環境を知っておくべきと考えたからにほかならない。《QED》