【知道中国 1119回】 一四・八・念二
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野4)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
宇野は北京の街を歩く。
大通りは「悉く完成して居」て、「立派な文明的施設をして居る」。だが「一歩路地に入ると昔ながらの惡路である」。雨が降ったら先ず歩けない。「且つ夫れ甚だ不潔ながら、彼等の家屋中に雪隱の設無いでもないけれども、窮屈な臭い處よりも青天井の下を好む性があつて、横町や曲り角などは?々蹲踞して居るのを見ることがある。通りかゝつた人は見て見ぬ振りをせねばならぬ。人々爲さゞる可からざることを爲す何の憚ることかこれあらん、見る人は即罪ありといふ。隨分勝手な習慣では無いか」
最近、メディアでは中国では公共交通機関や街角で子供に大小便をさせる親の不作法が話題になり、その“非文明対応”を半ば憤り半ば呆れつつ嘲笑的口調で論じる“識者”が見受けられる。だが、そういった風景は昨日や今日に始まったことではなく、宇野の体験に拠れば、1世紀以上昔の北京ですでに日常化していたことが判る。あるいは、それ以前から行われていたのかもしれない。ならば、公衆の面前での悪臭紛々たる振る舞いは、遠い昔から淡々とさり気なく続いてきたものなのか。それとも最近のように生活水準が向上することによって復活したものなのか――こんな疑問を抱いてしまう。やや口幅ったい表現をするなら万古不易の伝統なのか、それとも伝統の復活なのか、ということになる。
かりに連綿と続く伝統とするなら、「中華文明」は随分と尾籠な要素を含んでいるものだと呆れ返るしかない。こんな「中華文明の偉大な復興」が実現した日には、世界中が悪臭紛々となる恐れ大である。それでもなお「見る人は即罪ありといふ」のなら、確かに宇野のいうように「隨分勝手な習慣」であり、今後のお付合いは御免蒙りたいものだ。
一方、伝統の復活とするなら、“衣食足りて礼節を知る”という霊長類の長たるヒトとしての当然の進化が認められなくなる。“衣食足りて”いるにもかかわらず「人々爲さゞる可からざることを爲す何の憚ることかこれあらん」というのでは、これまた堪らない。高尚な歴史認識云々などという問題以前の問題だ。習近平は不正取り締まりに立ち上がり、「大トラ」も「ハエ」も許さないと息巻いているようだが、その前に街角に乱舞する蠅の発生原因を徹底して根絶してもらいたいものである。
宇野は、「所々の横町の壁上には君子自重の四文字を題してある。猥りに放尿すべからずといふ意味である。朝早く街路を過ぐれば、掃除人は桶を肩にして路上を清めて居るのを見受くる。而して左右の人家からは?ゝ馬桶即ちオカワの中の汚水を路上に撒く者をも見受くる」と続ける。
掃除人は路上で何を拾い肩の桶に入れるのか。路上に撒かれる汚水の正体が何なのか。もはや説明の要はないだろう。1980年代半ば、家族を引き連れ上海の朝の下町を探索した際、家の軒先で「馬桶即ちオカワの中の汚水を路上に撒く」風景に接したが、我が家族のカルチャーショックは想像するに難くなかった。これも伝統の墨守か、復活か。
これまた香港留学時の経験だが、「君子自重の四文字」で思い当たるのは、当時、繁華街の公衆便所に張られた「壁に塗り付けるな」の文字であった。塗り付けるものが何なのか。これまた説明の要はないはずだ。40数年前の香港ですらこれである。であるなら、中国全土で公衆衛生問題が解決するには尚も多くの時間がかかることだろう。ヤレヤレ。
北京での街頭探索は続く。
「下層の支那人」がタバコの屋台で「一本ずゝ買ふ」こと「隨分珍ではあるまいか」と驚きつつ、「惡く云へば其のシミッタレ根性、善く云へば其の經濟思想の發達が、こんな事でもよく分かる」と、彼らの「經濟思想の發達」に頻りに感心してみせる。《QED》