【知道中国 1117回】 一四・八・仲八
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野2)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
「横濱埠頭に立ちて見送る人の顔もたそがるゝ頃、予は前途の希望を抱いて、郵船會社のチャーター亜遜號に乘り込んだ」。明治39(1906)年初のことである。船は紀州灘、朝鮮海峡を経て、天津への入り口である太沽沖に到着した。
太沽沖から白河を遡って塘沽に上陸するが、「最初の瞥見は、遺憾ながら決して愉快なものでは無かった」という。なぜなら「白河を夾んで建て連ねた民家は、極めて矮陋なる泥屋?で、壁は勿論家根までも泥を塗つてある。聞けば高梁の幹を壁とも家根ともして泥を塗った者と云ふ。折から冬枯の野は満目荒凉を極めて居る、而して塘沽の家屋は豚小屋では無いかと怪しまれる」ほどだからだった。中国の北の玄関と称されていた太沽沖や塘沽の余りにもみすぼらしい姿に、先ず驚き呆れ果てたようだ。
次いで塘沽から天津を経て鉄道で北京に入る。
確かに中国は広大で地方によって風俗習慣も大いに異なるが、「北京は亦或る點までは支那の模型と云ふことが出來る。北京を了解すれば支那の過半を了解したものである。先ず北京を熟知して、而して後各地を遍歷すれば、支那の眞相は愈明白となるであらふ」と、先ず「支那の模型」である北京を理解した後に、中国各地を巡る――これが、宇野が考え付いた中国理解の方法だ。
北京を訪れる者の常として、「先ず城壁に登る。而して一度は此の城壁の壮大なる、眞に金城鐵壁の概あるに驚く」。だが、城壁上の要地にはアメリカとドイツが砲台を構え、「巨砲を皇居に差向け、イザと云わゞ一擊の下に粉碎せざれば止まぬ形勢を示して居るを見ては、二度喫驚せぬものはあるまい」と、驚いている。
当時、皇居、つまり清朝皇帝の住む紫禁城にアメリカとドイツが砲口を向けているということは、清朝に対する生殺与奪の権は、この両国が直接的に握っていたことを意味するわけだが、ここで、当時の清朝をめぐる国際関係を簡単に振り返っておきたい。
宇野留学の12年前の1894(明治27)年、朝鮮半島の李朝の取り扱いを巡って戦端が開かれた日清戦争で、日本は勝利を収める。その結果、「眠れる獅子」の実態が内外に明らかになるのだが、日清戦争勝利の果実は、ロシア、フランス、ドイツに掠め取られてしまう。この「三国干渉」に対し、日本国民は「臥薪嘗胆」を心に刻んだ。
1900(明治33)年、清朝保守派の指導者であった西太后の支持を背景に狂信的排外運動を展開する義和団制圧のため、イギリス、フランスなどを中核とする八カ国連合軍が北京を制圧した。この戦争で略奪を恣にする他国軍隊とは異なり、柴五郎中佐の指揮の下で軍規厳正に戦った日本軍は、北京市民からも好感情で迎えられている。次いで宇野留学直前の1904(明治37)年に勃発した日露戦争は、大方の予想に反し日本の勝利に終わった。
日露戦争から10年が過ぎて起こった第1次世界大戦の戦後処理をめぐるベルサイユ講和会議を前に、中国では激しい反日運動が起こることになるが、義和団事件における日本軍の振る舞いや日露戦争勝利などから、おそらく宇野留学当時、北京のみならず中国全土における日本及び日本人に対する感情は悪くなかった、いや好ましかったとの記録もみえる。
宇野は「皇居の壮を見ずんば孰んぞ天子の尊きを知らんやとは古來言ひ傳へられたる格言である。故に皇居は輪たり奐たり壮麗を極めて居る」と綴るものの、北京の街並みを見ては、「軒傾き壁れて隨分ヒドイものが少なくない。これが四百余州の大帝國の帝都とは何うしても首肯かれない。市街は一體に衰亡の色彩を帶びて見える」とする。
「北京は亦或る點までは支那の模型」と考える宇野にとって、北京の街並みが漂わせる「衰亡の色彩」に、あるいは衰え逝く清国の姿を重ね合わせたのかも知れない。《QED》