【知道中国 1116回】 一四・八・仲六
――「実に多くの点において物を糊塗することの巧みなる・・・」(宇野1)
『支那文明記』(宇野哲人 大正七年 大同館書店)
宇野哲人(明治8=1875年~昭和49=1974年)は、東京帝国大学文科大学(現文学部)助教授時代の明治39(1906)年初から約2年に亘って北京に留学した。当時、自らの足で歩き、目で見て感じた異郷の姿を故郷・熊本の両親に書き送る。それが「熊本日日新聞」に連載され、好評を博した。そこで連載を纏め、『支那文明記』と題し世に問うことになる。
1906年といえば、日本は日露戦争勝利直後であり、中国は清朝崩壊への引き金となった辛亥革命が勃発した1911年の5年前。彼が留学した北京は天子の都である。さぞや物情騒然としていただろう。北京のみならず、全土が混乱の中にあったと思われるが、ともかくも宇野の足は北京だけに留まっていたわけではない。市内を振り出しに、近郊から山東、長安、長沙、武漢、南京、鎮江、蘇州、杭州と名勝古跡を求めて歩く。最期の中華帝国たる清朝の崩壊前夜のありのままの中国から、宇野が「支那文明」をどのように捉えたのか。非常に興味深いところだが、先ずは参考までに彼の略歴を見ておこう。
熊本第五高等学校から東京帝国大学文科大学漢学科へ。卒業時の成績優秀により明治天皇より銀時計を賜る。大学院を経て東京高等師範学校講師から教授。東京帝国大学文科大学助教授兼東京高等師範学校教授。この間、清国とドイツに留学。帰国後は東京帝国大学文科大学教授兼東京文理科大学教授。定年後、立教大学、警察講習所(現警察大学)、国立北京大学(中華民国)、東方文化学院、実践女子大、国士舘大学、聖心女子大学などで教授や学長などを務めた他、慶應義塾大学、東洋大学、曹洞宗大学(現駒沢大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、日本大学、豊山大学(現大正大学)、大東文化学院などでも教鞭を執る。
まさに赫々としか形容しようのない経歴。加えるに、これまで読んだことのある何冊かの彼の著作から判断して、さぞや石部金吉で四角四面な道学者であり、であればこそ『支那文明記』はクソ面白くもない中華礼讃の旅行記だろうと、文字通り積読に任せていた。だが、ある時、パラパラと頁を繰っていると、万里の長城に遊んだ際の次の記述に目が止まる。
「こゝに於て携え來りウヰスキーの杯を擧げ、朔風に向かつて君が代を合唱すること二回、大日本帝國天皇陛下萬歳を連呼すること三回、予は未だ嘗て此の時ほど痛快なるを覺えたことは無い」
東京帝国大学助教授が万里の長城に立ち、持参したウイスキーを口にした後、北を向き朔風に逆らって「君が代」を2回唱った後、「大日本帝國天皇陛下萬歳」を3回である。おそらく口の中に砂漠の砂が飛び込んできたことだろう。この個所を読んだ時、宇野哲人という漢学者に俄然興味が湧くのを覚え、改めて最初から読み返すこととした。(引用は時に現行漢字体、仮名遣いを使わざるをえないことがあるが、予め了承願いたい)
宇野は巻頭の「序」に、「千數百年來、我國との交際甚だ密接にして、僅に一衣帶水を以て相距てたる支那の國情は、已に明白でなければならぬ筈で、實は頗る明らかで無い。/古の聖經賢傳を讀みて支那を解するものは、聖賢竝び起り賢良雲の如き支那は、實にこの世に於ける理想郷なりとして居る。支那は果して理想郷なるか。/世人往々にして自己の乏しき經驗を本として、直ちに支那人を漫罵して忘恩背徳度し難いものとなるものがある。支那國民は果して斯の如く漫罵し去るべきか」と記す。
「支那の國情は、已に明白でなければならぬ筈で、實は頗る明らかで無い」。「支那は果して理想郷なるか」。「支那人」は「忘恩背徳度し難」く、「漫罵し去るべきか」――宇野の疑問は宇野留学から百年余が過ぎた現在にも通じるように思える。やはり中国と中国人は永遠のナゾなのか。宇野の旅を追いながら、宇野の説く「支那文明」を考えたい。《QED》