【知道中国 1113回】                       一四・八・十

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田15)

「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 

仁井田の犬肉談義が飛び出したので、香港留学時の犬肉の思い出を綴っておきたい。すでに書いた話もあると思うが、その場合はご勘弁のほどを。

 

その1:香港の啓徳空港に最初に降り立ったのは1970年の晩秋のこと。あれは衝撃的な三島事件の1,2週間前だったように記憶している。成田空港は完成しているわけもなく、羽田から。日本航空のエコノミー料金が片道で7万円前後だったように記憶している。愛読紙の「東京スポーツ」が10円だった頃だ。

 

住んだのは低所得者用高層アパートの24階。戴さん宅の1部屋だった。だが本当の大家さんは戴さんではない。戴さんが借りている家の1部屋を、見ず知らずの日本人留学生に又貸してくれたわけだ。私が部屋代を支払うから、戴さんは些かなりとも助かる。貧乏な日本人留学生としては、相場より格安家賃で部屋が借りられる。そこで大いに助かる。加えて大家さんには所定の家賃が入る。大家さん、戴さん、日本人留学生の私――三方に損なし。これを相互扶助という。

 

到着翌日だったろうか。戴さんが今度の日曜日に友人を呼んで歓迎会をしてやろうと。遠慮は不要である。殊に中国人には。そこで満を持して、その日を待った。当日の朝、台所を覗いてみると白い仔犬がチョコチョコと歩いている。昼、皮を剝かれた仔犬は腹を天井に向け横たわっていた。その後、一口大に切り分けられ下拵えされたのであろう。夜になると、居間の中央に置かれた土鍋の中でグツグツと煮え立った汁の中で躍っていた。

 

やがて戴さんの友人やら教え子が揃う。自己紹介もそこそこに、宴会がはじまった。誰もが口々に「好食(うまい)」を連発しながら、土鍋のなかの肉をつつく。その光景を横目で見ながら秘かに、いったい、この人たちは本当に人間なのだろうかと疑問を抱いたものだ。初の犬肉といったこともあり、もちろん箸は動かない。そこで鍋の中の野菜だけを食べていると、「肉も食べなよ。旨いよ」と。

 

異文化との“理解”やら“共生”は理屈でできるものではない。先ず食事と排泄を共にすることから始めよ――を信条としているからには、ここは臆してはならない。断固、食べねばなるまい。ええいッ、ままよッと犬肉を口に放り込み噛み始める。なにやらマトンの味。こうなったら後は一瀉千里である。

 

その2:犬肉の味を覚えると、夜な夜な屋台の犬肉屋へ。

 

そぞろ秋風が立ち始める頃になると、街角に「香肉上市(いぬにくでました)」の張り紙が。犬肉の屋台の季節だ。七輪の上のグツグツと煮立った土鍋の中から犬肉の香りが立ち上り、それが熾った炭の匂いとブレンドされ、なんとも心地よい香りが鼻孔を撃つ。屋台の前の酒屋で調達した香港製の些かアブナイ紹興酒をグイッと煽りながら、アツアツの犬肉を口に。至福の一瞬である。と、そこへパトカーがスーッと近づいて来て停車する。これは手入れか。慌てて腰を浮かせると、さにあらず。

 

パトカーの窓が下された頃合いを見計らって、屋台のオヤジはアツアツの犬肉が入った丼と酒1本を差し入れる。窓が閉められ、パトカーは立ち去る。1時間ほどが過ぎると、同じパトカーが戻って来る。窓から差し出された空の丼と酒ビンを屋台のオヤジが受け取ると、パトカーは立ち去って行った。阿吽の呼吸による見事なまでの“連係プレイ”だ。

 

屋台のオヤジは格安のみかじめ料で安心して商売が、一方の警官は免費(ただ)で胃の腑を満足させながら寒さ知らずのパトロールができる。これまた相互扶助なのだ。

 

その3:千客万来・大繁盛。仕込んでおいた犬肉が少なくなると、屋台のオヤジは近くに繋いでおいた犬の中から1匹を選び、解体作業に入る。さて、《欲知端詳 且停下回分解》