【知道中国 1030】      一四・一・念九

 ――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の6)

 「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「新中国に感心する話というと、一時はハエがいなくなったこと、道のよくなったことで持ち切りであった。前のことは知らないが、たしかに道は広く、よくなっている。ハエもほとんどいないが、それは枝葉の話であって、はじめて行ったわたくしでさえ目がまわりそうな速度で、新しいものが動いている」。たとえば街並み。「北京の市中には、むやみに新しい大建築が建ちかけている」のだが、案内役さえ「全く知らないのである。つまり中国の青年でさえ、一々気にしていては間に合わないほどの早さなのである」と、建設ラッシに驚きを隠さない。

 「現状だけで判断すれば、たしかに新中国では、立ち遅れの面がある」。だが「大変な進歩である。その速度に注意すべきである。現状を平に切って(日中を)比較しては、まもなく、こちらが困ることになるだろう。中国人は、すぐに“学ばなければならない”という。日本人はそれを聞いて、腹の中でいい気になることがありはしないか」。「相手の短所には目もくれず、長所だけを学ぼうとする」と、ともかくも中国側を持ち上げた後、中島は「残念ながら日本人はしばしばその逆」と批判の矛先を日本人に向けるが、当時の中国から日本は何を学べばよかったのか。まさか土地改革、公私合営、知識人狩り、挙国一致の過激・理不尽極まる政治闘争、それらの当然の帰結としての国民間の相互不信と疑心暗鬼を根底にした毛沢東による独裁でも学べとでもいいたいのか。なによりも「長所」がみつからない以上、学びようはない。バカも休み休み願います、である。

 中島は子供を見かけ、「子どもを大せつにし、子どもの表情の明るいことは、うわさに聞いた通りである。ピオニールに属する子どもたちが、赤いネクタイを首にまいて嬉しそうに列を作って歩いているのを見ると、全く気もちがいい。こちらが少しでも親しみの情をあらわせば、必ず反応がある。これは本ものである」と、中国の幼児・児童教育を礼賛する。だが、「赤いネクタイを首にまいて嬉しそうに列を作って歩いている」子供たちは、実は完全なる毛沢東教育の申し子なのだ。

 “毛沢東のよい子”である標識の赤いネクタイを首に巻き、一旦緩急あれば毛沢東のために身命を賭して戦うよう改造されたというわけだ。おそらく当時は小学生だった彼らの頭の中は、「偉大なる領袖・毛主席」の教えで満杯だったはず。であればこそ、それから10年ほどが過ぎた66年に勃発した文革の際には紅衛兵に成長し、毛沢東のために“獅子奮迅”の大暴れをしたはず。中島が何を指して「これは本ものである」という感想を漏らしたのかは不明だが、“毛沢東のよい子”という意味なら、確かに「これは本ものである」。

 中島は「新中国での重要問題の一つは、人口問題だ」と聞かされ、「前から受胎制限などが唱えられていたというが、わたくしにとっては、人口問題は初耳だった」と続ける。ならば中島は、訪中4ヶ月ほど前の7月に北京大学長の馬寅初が人口抑制こそ緊急課題として公表した「新人口論」についての情報を耳にしていなかったのか。馬の主張が、口を消費に手を生産に喩え「人が1人生まれれば口は1つ増えるが、手は2本増える。ゆえに生産は消費に2倍する」との毛沢東の考えを真っ向から否定していることは明か。毛沢東の逆鱗に触れた馬寅初は反右派闘争の激浪に呑み込まれて行く。一切の公職を解かれた後、馬は屈辱の日々を耐えて生きるしかなかった。

 「“知識分子”の帰農運動がおこなわれているらしく、作家の趙樹理は、農村文学の作家だが、その子息が帰農したことが話題となっていた」と記す。都市の若者を農山村に送り込む運動を文革当時は「下放運動」と呼んだが、じつは早くも50年代には共産主義青年団の音頭取りで始まっている。「帰農運動」と呼べるような生易しいものではなかった。《QED》