【知道中国 1111回】 一四・八・初六
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田13)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
当時、宣伝要員は仁井田だけではなかった。その典型例が、『中国現代史』(岩波新書 1964年)を著した岩村三千夫(中国研究所員)と野原四朗(専修大学教授)の2人だろう。
彼らは大躍進の大失敗は専ら天災によってもたらされたものであり、最上層は毛沢東から最下層は人民公社の幹部に至るまで、全指導者のデタラメな振る舞いが必然的に招来した人災ではないと強弁し、共産党による独裁政治の弊害の隠蔽に努める。
「一九五九年の自然災害は、六月以降のひでりが主であって、黄河流域、長江流域の九つの省で、七月から一〇月までの総雨量は、平年の三〇%から六五%ほどで、一〇〇日余り雨をみない地帯もあった」。被害面積は59年が全耕地面積の40%前後、60年は55%、61年は50%余に達した。
「この三年つづきの大災害は、農業生産全般に重大な打撃をあたえ、六〇年の農業生産額は五七年の水準より低いところまで下落した。六一年は六〇年よりよかったといわれるが、それでもやはり五七年の水準にとどまったとみられる」とする。だが、なんと言い繕ったところで、毛沢東が強引に推し進めた大躍進が躍進どころか、じつは大後退をもたらし、中国全土を飢餓地獄に変貌させたことは否定しようがない。
それにしても59年の「七月から一〇月までの総雨量は、平年の三〇%から六五%ほどで、一〇〇日余り雨をみない地帯」のなかには上海も含まれていたはずだが、奇妙なことに仁井田は旱魃の「か」の字も口にしていない。おそらく仁井田が訪れた人民公社は広告塔として位置づけられ、それだけに政府当局から手厚い保護が加えられていたに違いない。
人民公社について『現代中国史』は、「その高度の集団の威力によって、自然災害にたえぬく大きな力を発揮した。〔中略〕農作物を災害からまもるために、あらゆる労働力が農業のために動員された。〔中略〕人民公社という大きな集団の威力は、自然災害のなかでもみごとに発揮された」と大絶賛した後、なんと餓死者はでなかったと断言している。これはまるで、89年の天安門事件で民主派の犠牲者はゼロだったと言い張る媚中派と同じ論法ではないか。
「ふるい中国であったならば、一九六〇年のような規模の自然災害を一年うけただけでも、被災地区の農民は郷土をすてて離村し、到る所で数十万から数百万もの餓死者をだした。しかし、新しい中国のもとで、三年つづきの自然災害をうけても餓死者はでなかったし、離村現象さえみられず、農民たちはあくまでも郷土をまもって生産をつづけた。この一つのことをもってしても、新中国の十余年の改造と建設が、いかに大地に深く根をおろしたかをしることができる」と。
「大地に深く根をおろした」ことが具体的に何を意味するのか不明だが、この種の極めて文学的で抽象的な表現を用いることで、実状が糊塗され、「新中国の十余年の改造と建設」の惨状が包み隠されてしまうことは確かだろう。極めて意図的な詐術と見做すべきだが、『中国現代史』の著者が「新中国の十余年の改造と建設が、いかに大地に深く根をおろしたかをしることができる」と信じ込んでいるというなら、やはり彼らは愚二アラザレバ誣(本人が余ほどのバカか、さもなくば世間を誑かしている)ということになるだろう。
特段揚げ足取りをする心算はないが、上記の「ふるい中国・・・」以下の部分は、「ふるい中国であったなら〔中略〕到る所で数十万から数百万もの餓死者をだ」す程度で収まっていたものを、「新しい中国のもとで」は数千万の餓死者をだしてしまった。「この一つのことをもってしても、新中国の十余年の改造と建設が、いかに」多くの犠牲を強いたかを「しることができる」と書き改められるべきだろうに。万死に値するのは・・・誰。《QED》