【知道中国 1110回】                       一四・八・初四

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田12)

「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 

仁井田は、上海近郊の人民公社で「三度三度食事が、ともかく、心配なくたべられる」と聞かされたままをノー天気にも綴る。ところで中国古代史の権威で世界的に知られた楊寛も、同じ頃に上海市当局の招きで上海近郊の農村を視察している。仁井田視察の人民公社と同じかどうかは不明だが。彼は自らの人生を振り返った浩瀚な『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史家の軌跡』(東京大学出版会 1995年)に、当時の情況を次のように記した。

 

①「人が大胆であるほど、大地はより多くを生み出す」とのスローガンに従い、「それぞれの指導者が、自らのランクに応じて、より高い目標を設定し、下に圧力をかけ、目標の達成を求める」。それに対し、「下層幹部はどうする術もなく、ただ高生産をあげたという虚偽の報告を行うだけであったが、それが上からの褒賞の対象となった」

②そこで「褒賞を争って、生産数を示す数字はいよいよ大きくなり、ますます大胆に虚偽を弄」し、「架空を現実にみせかけるため、偽りの『現場会議』を開き、捏造したニュースを流し、またトリック写真を捏造し」、宣伝に努めた。

③インチキの典型が密植法で、「たわわに実った稲が隙間なく植えられているのを見たが、出来の良い稲を多くの田から根ごと移植して密集させたということがありありと分った。農業の経験が少しでもありさえすれば、一目で気付くことであった」

④かくしてウソがウソを増幅させ、増幅されたウソを現実と見做すことになる。「上層指導者の中には、農業の大躍進が極めて順調に達成されつつあり、共産主義社会の到来も間近で、すぐにでも『必要に応じて分配し、それぞれが必要なだけ取る』ことができるようになる、と真面目に考える者も少なくなかった」。そこで「人民公社の食堂では、『食事は無料』で皆が思う存分食べることができなければならない、と唱えられた」

⑤だから「上海近郊の人民公社でも、こうした呼びかけに応えて、その通り実行された。私が農村へ行って(好成績を挙げている公社を参観し)、そこの食堂に入った時にも、壁に「吃飯不要銭(食事は無料)」という五文字が墨で大書してあった」

 

この楊寛の回想で、仁井田が聞かされた「三度三度食事が、ともかく、心配なくたべられる」の実態が判るだろう。つまりインチキであり、真っ赤なウソだった。

 

映画監督の陳凱歌は、当時の北京で幼少期を送っているが、自らの半生を綴った『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)で、「いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根やクズを拾い集めては、細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗がでるほど手に握り締めて、それからしょっぱいのを一粒ずつかみしめる。それでも、足にはむくみが浮いたままだった」と、当時を振り返る。

 

これが首都の惨状である。陳は農村の過酷な情況を「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食にでることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中から幼児の腕がみつかった」と綴る。

 

もはや、何らの説明を重ねる必要もないだろう。「三度三度食事が、ともかく、心配なくたべられる」と嘘八百を口にする仁井田は素直すぎる、いや超弩級の・・・アホだ。《QED》