【知道中国 1109回】                       一四・八・初二

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田11)

「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 

かつて上海で典型的な貧民街として知られた葯水弄について、「このような貧民窟にも、ごろつきがいた。人をおどして金をまきあげた。また誕生日などにかこつけて招待状をおくり、金品をもっていかないと因縁をつけた。喧嘩、賭博、麻薬注射は日常茶飯事であった。かつて飲料水は蘇州河のどぶ水をくみ、道はでこぼこ、電燈もなかった」と解説した後、「今では昔の状態は大いに改善され、わらぶきの家もほとんどなくなった」と共産党政権による政治の“成果”を大いに讃える。

 

さらに「上海のごろつきは葯水弄に限ることはなかった。ごろつき、すり、乞食、ばくちうち、売春など――いわゆる遊民――は、上海の人口の約二分、一二万人いた」と、解放前の上海の惨状を綴り、「これらは上海解放後、勤労意欲をもつ新しい人間に改造されていった。このような改造が行われ、ごろつきが退治されたことについては、その前提として官憲がこれらと結託したものでないこと、民衆が退治に協力すること――否、協力できる政治社会条件がつくられていることが何よりも必要である」と、民衆が「協力できる政治社会的条件」の背景に共産党政権のよりよき指導を暗示させる。

 

だが、上海の遊民は49年の解放=建国を経て、「勤労意欲をもつ新しい人間に改造されていった」のか。そう簡単に改造されることはなかっただろうし、「民衆が(遊民の)退治に協力」したとも思えない。なんせ数年前までは、世界に冠たる「魔都」だったんだから。

 

これまた横道に逸れるが、香港留学時代に知り合った上海出身の元紅衛兵は、「上海の紅衛兵にとって最大・最強の敵は、かつての青幇・紅幇などの流れをくむ港湾労働者を中心にしたヤクザ組織だった。彼らとの武闘の際、我われは『ヤクザに負けるな』と大声で自らを励ましたものだ」と語ってくれた。「それで勝ったの、負けたの」と問うと、「余りにも凶暴で、当初はヤワな我らの手に負えなかった。だが次第に・・・最後は制圧だ」と。

 

仁井田は「ここでも北京、沈陽、武漢などの他の土地と同様、工人集団住宅(新村)がどんどん建設されていた。上海の夜の暗の世界は今日ではなくなった」と記すが、友人の元紅衛兵の話に拠るなら、上海で如何なる「政治社会条件」が整えられたかは知らないが、どうやら解放後も「遊民」は生き残って、いや厳然として存在していたということだろう。上海がそうなら、大連でも、北京でも、天津でも、南京でも、武漢でも、広州でも、およそ中国全土の都市で、時に「官憲がこれらと結託」し、ワルサをしていたに違いない。

 

だが東大教授で世界的権威が「上海の夜の暗の世界は今日ではなくなった」と断定口調で記せば、世間はそう信じるはずだ。共産党政権による巧妙な対日宣伝工作・詐術である。

 

日程最終地の広州に向かう前日、現在は日本との因縁浅からぬ宝山製鉄所のある宝山県黄浦人民公社を見学したが、まさに仁井田は自動筆記装置と化した。

 

「ここでは総戸数八千戸近く、ポンプ四五台を持ち、電気ポンプは河水をすいあげ、ディーゼルポンプは野菜畑の散水につかう。小学校は一五、中学校は一二をもっている。その他、託児所、幼稚園、産院、保健所などができている。農婦も産後は七五日休むが月給には変りがない。学齢期七歳以上は誰でも学校にゆくこと、三度三度食事が、ともかく、心配なくたべられることなど、昔にくらべたら大変なちがいである」と、人民公社を紹介している。

 

おそらく案内者の説明に何の疑いを抱くことなく、さぞや聞かされるがままに素直に記したのだろう。かりに人民公社が「三度三度食事が、ともかく、心配なくたべられる」ことを実現していたなら、「昔にくらべたら大変なちがいである」ことだけは確かだ。だが実態はそうではなかった。理想郷というカンバンを掲げた地獄でしかなかったのだ。《QED》