【知道中国 1107回】 一四・七・念九
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田9)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
北京から向かった武漢では武漢長江大橋を見学する。「解放前までは『黄河は治められない。長江には橋はかけられない。もしかけるのができるのだったら一年三百六十五日ぶっ通しで日照りがつづかなければ』といわれ、架橋の不可能が信じられていた」。だが、「今やそれは一つの迷信にすぎないことが実証せられた」そうだ。
「実証せられた」などと大仰な表現を使われると、「へ、へへへーッ、左様で。さすがに共産党政権でござりまする」と平身低頭で納得せざるをえないようだ。だが、考えてみれば、架橋できるかどうかは土木工学と社会環境、それに費用対効果の問題だと思いたい。
1840年のアヘン戦争から1894年の日清戦争まで、まさに列強相手に連戦連敗の中国(清朝)に長江を跨ぐような橋梁を建設するだけの先進土木工学があったとも思えないし、ましてや財政的余裕など皆無だったろう。1911年に辛亥革命が起こり、清朝は崩壊する。1912年元旦にアジアで最初の立憲共和制の中華民国が呱々の声をあげるが政権基盤は定まらず、確固とした中央政権を形成することないままに軍閥時代に突入。その後は列強の支援を受けて各地に割拠する軍閥によるバトルロイヤル状態。さらには日中戦争を挟んでの国民党と共産党の間でのデスマッチ――いいかえれば中国はアヘン戦争から1世紀近くも大混乱に責め苛まれたわけだから、政治的にも社会的にも財政的にも長江を跨ぐ大橋など建設できる客観情況になかったということだろうに。
にもかかわらず仁井田の口から「今やそれは一つの迷信にすぎないことが実証せられた」などといった台詞が飛び出すと、大部分の日本人は、さすがに共産党政権、やることが違う。歴史的な迷信を打ち破った、と勘違いをしてしまう。これまた宣伝戦の一齣。
次に武漢から上海へ。
上海における宿舎は、当時としては上海のみならず全国規模でも最上級といていい和平飯店だった。それほどまでに中国側は仁井田を厚遇していたということだろう。対外開放からほどない80年代初期に和平飯店を覗いたことがあるが、ともかくも贅を尽くした豪華な調度品に黒光りするマホガニー製のカウンター・バーの重厚な雰囲気は最高にステキだった。元はといえば、このホテルは魔都と呼ばれた時代の上海に君臨したサッスーン財閥の牙城だった施設。まさに「資本主義の残滓そのもの」であるだけに、文革当時に紅衛兵に襲撃されなかったのかと係員に尋ねると、涼しい顔で「ここは特別ですから。彼らに指1本触れさせませんでした」と。
ともかくも融通無碍といおうか、無原則の大原則といおうか。中国人の振る舞いの臨機応変ぶりに改めて感心させられると同時に、中国人の千変万化する行動と、百花繚乱たる修辞に溢れた理屈を、自らが抱いた“原則”に縛られたままに飽くまでも生真面目に合理的に解釈しようとする日本人の努力の虚しさを痛感した次第だった。この悪弊を改めない限り、日本人は対中関係で躓きを繰り返す。何度でもいう。彼らの大原則は無原則である。
話を仁井田に戻す。
「上海の水道の水は泥臭くてまずい。それで最初の日は水にかえてビールを飲んだ。次の日は水を飲むとき鼻をつまんで飲んだ。さらに次の日は息をつかないで飲んだ」そうだ。東大教授による泥臭くてまずい上海の水の一気飲み。なにやら一幅の絵になりそうだが、上海の水道の水は魔都時代から泥臭くてまずかったろうか。その点に言及がないのが残念だ。あるいは、共産党政権になってから泥臭くてまずくなった・・・りして。
「解放前のいわゆる貧民街、葯水弄を訪れた」が、そこは面目を一新させていた。それもこれも共産党政権による解放の賜物・・・自動筆記装置はフル稼働モードに入る。《QED》