【知道中国 1106回】 一四・七・念七
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田8)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
戦前、仁井田は学術調査などで北京に長期滞在したことがある。そこで「私は戦時中、北京でタバコやその他の行列買いにしばしば出会ったし、電車にむらがる民衆も見た。配給品を買う行列では、後の人は前の人の背中につかまって途中からの割り込みをふせいでいた。その行列は蛇が歩くようにうねっていた。自分を守るものは自分の実力以外になかった。官憲もこれを守ってくれてはいなかった」と綴った後、北京の街の激変ぶりを次のように記す。
「バスや電車に乗る人は静かに乗る順を待っていて割り込む者はいない」。「乗客は秩序正しく自分の番を待っていた。誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態を私は見た。それはどろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」と。
一時話題になったTVドラマの「家政婦のミタ」ではないが、北京の街角における人々の戦時中とは打って変わった秩序正しい振る舞いを「私は見た」といわれても、やはり俄かには信じられない。「乗客は秩序正しく自分の番を待っていた」からといって、それがどうして「誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」になり、とどのつまりは「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」ことに一気に繋がってしまうのか。余りの飛躍に驚くばかり。まったく理解に苦しむ。
だが中国法制史の世界的権威である東大教授から北京で実際に経験してきたのだと力説されれば、余ほどのヘソ曲がりかノーテン・ホワイラ(脳天壊了)、はたまた反中思想の持ち主でない限り、信じてしまうはず。いや、それだけではない。あの広大な大陸全土が「自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」であり、「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」理想的な社会に変貌したと誤解し、かくて日本国内の中国に対する好感度は飛躍的に高まることになる。中国共産党が戦後日本に仕掛けた功名極まりない宣伝・思想戦である。
仁井田をアゴ・アシつきで中国旅行させたところで、バカ高い経費が掛かるわけではない。いや安上がり。費用対効果バツグンの洗脳工作といっていいだろう。
かりに仁井田が「見た」そのままに、「どろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」と説く「自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がいない状態」が現在まで続いていたなら、国内的には幹部による天文学的金額の不正蓄財も、暗闘止まない権力闘争も、ヒトとしての生活の限度を遥かに超えた劣悪極まりない環境問題も、気の遠くなるような格差問題も、対外的には尖閣問題も、南シナ海の領有権問題も、世界の主要都市での不動産の買い漁り問題も、地球規模での資源強奪問題も起こりえなかったに違いない。おっと、腐った肉の輸出の一件を忘れてはいけない。
結局、アゴ・アシ、ときに小遣い付きで中国側にオルグされた民主派・進歩派を僭称した数多のヤツラと同じように、仁井田もまた自らが気づかないままに、中国側の宣伝工作に乗せられ、その一端を担わされていたということだ。無意識だけに始末が悪い。
とどのつまり中国社会は万古不易なのだ。にもかかわらず、かつての「自分を守るものは自分の実力以外になかった。官憲もこれを守ってくれてはいなかった」情況が、毛沢東に率いられた共産党政権の誕生によって、「誰も自分の支配領域をこえて他人の利益を犯そうとする者がない状態」で「それはどろぼうせぬこと、わいろをとらぬことと同じ意味をもつ」情況に激変したと誤解した、いや、させられただけだろう。
やはり仁井田はオカシイ。仁井田の犯罪的なバカバカしさは、まだまだ続く。《QED》