【知道中国 1031】                       一四・一・三一

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の6)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

1955年8月、共産主義青年団は党中央の呼びかけに即応し、「向荒山、荒地、荒灘進軍(山地から海浜まですべての荒地に向かって進軍せよ)」のスローガンを掲げ、全国津々浦々の未開墾地の開拓に若者を送り込んだのである。当時、中央書記処書記として共産主義青年団トップを務めていた胡耀邦は若者に向かって、「忍受、学習、団結、闘争」の8文字を送り、困難極まりない開墾労働を通じ自らを鍛錬し、祖国の建設、農業生産増収に邁進せよと煽って煽って煽りまくったというわけだ。

 

胡耀邦の「忍受、学習、団結、闘争」に踊らされて決然と、そして勇躍と農山村の荒野で開墾に立ち向かった若者たちは後に著した回想録で、親元を離れた彼らの日々は「忍受、学習、団結、闘争」などとは大きく異なり、「忍苦、悔恨、内紛、怨嗟」であったと告白している。これこそが、中島が吹き込まれた「“知識分子”の帰農運動」の実態だったのだ。

 

それにしても、である。後年、改革・開放の総設計師とベタ褒めされている鄧小平が中国社会に消し難い深い亀裂をもたらした反右派運動の実質責任者であり、民主化を推進したがゆえに鄧小平ら保守派の猛反発に遭遇し心ならずも党総書記から引き摺り下ろされた“開明派”の胡耀邦が前途有為な若者を農山村の荒野に送り込んだ張本人とは、なんとも奇妙な感じがしないでもない。それほどまでに共産党の政治が紆余曲折を辿り、幹部として生き残るためには非情・冷血・変節でなければならないということだ。胡耀邦の“憤死”が89年の天安門事件の引き金になったことは、敢えて記すまでもないことだろうが。

 

中島に戻る。彼は「自分の尺度ではからずに、一応、相手の尺度を理解してから判断しないと、見当ちがいが多いだろうと思って、できるだけ素直に先方の解釈を受けとったつもりだが」と何やらもっともらしいことを記しているが、じつは「相手の尺度を理解」することを放棄して、「できるだけ素直に先方の解釈を受けとっ」ているだけ。ならば「見当ちがいが多い」ことも、致し方のないことだ。

 

当時、アゴ・アシ・小遣い付きで中国に招待された日本人の大部分が帰国後に、中島と同じように中国側の説明を鵜呑みにした訪中記を判で押したように発表し、中国絶賛の言辞を弄していたのだから、実に始末に負えない。であればこそ、毛沢東を徹底して神聖視し、周恩来を異常なまでに偶像視し、文革を大礼讃したのだろう。中国側が長い時間をかけて連続的に仕掛けてくる宣伝戦略の巧妙さに驚くばかりだが、それにしても日本人は無抵抗に過ぎたといわざるをえない。

 

その一例を、中島の次の記述に見ることができる。

 

曰く、「日本人に対する感情的なシコリを消すために、(中国)政府は本気で努力してきた、という。それを忘れて、日本人の方でおかしなシコリを残しているのは、信義に関し、品格に関することを改めて痛感した」

 

さらに曰く、「日本から新中国に何か持っていくとすれば、日本での第一流品の本物を選ばなければ、ますます通用しないであろう。・・・特に、本物の第一流品を必要とするのは、政治である。小手先の外交は、わけもなく見破られ、“貴国の人民はお気の毒”ということになる。腹の底を読むことにかけては、昔から向こうの方がうわ手である」

 

中国人に「貴国の人民はお気の毒」などと言われたくないが、司馬遷の『史記』から始まる歴代王朝の興亡の後を追った正史と呼ばれる歴史書からして、確かに「腹の底を読むことにかけては、昔から向こうの方がうわ手である」ことを示している。だが、それは有史以来、彼らが陰謀・陽謀を止めどもなく繰り返し、疑心暗鬼の権力闘争を性懲りもなく重ねてきたからだろう。旅を行くほどに、中島はトンチンカン振りを炸裂させる。《QED》