【知道中国 1103回】 一四・七・念一
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田5)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
当時、東大教授として仁井田がどれほどの“薄給”に甘んじていたかは知らない。だが、たとえ給与に不満があったにせよ、北京大学の「教授は高給をとっている」と羨望気味に綴るとは、哀しいばかりにさもしい根性の持ち主といわざるをえない。その俗物性に呆れ果てるが、さらに「研究費は請求しただけ交付せられる」と口にするに及んで、最早なにをかいわんや、である。
ここで、改めて当時の日中両国の政治社会情況を思い起こしてもらいたい。
57年は反右派闘争で、58年からは大躍進政策という中国に対し、日本では「60年アンポ」は目前。仁井田が訪中した59年前後、日本列島は日米安保改定問題に国論を二分して揺れていた。
仁井田が教えた東大の学生は当たり前のことだが授業も医療費も払うし、アルバイトをしなければならなかったかも知れない。だが、政府の外交政策に真っ向から反対し、「アンポ反対!」「岸を倒せ!」と声をあげながら授業を拒否し、大学構内から飛び出して、自らの主張を街頭デモで訴える自由は許された。
これに対し北京大学において、共産党政権が掲げた「反右派闘争」やら「大躍進政策」「人民公社化」に反対の声を挙げることができただろうか。共産党政権に批判的な知識人が嘗めざるを得なかった理不尽極まりない処遇に思いを及ぼせば、そんなことが出来ようはずもない。そんなことを口にしたら、直ちに監獄にブチ込まれ社会的に抹殺されてしまうどころか、情況によっては反革命で即刻死刑という処分だって考えられないわけではなかったのだ。
かりに仁井田の同僚たる東大教授が、当時の文部省に科学研究費を申請したら、「請求しただけ」の金額でなかったとしても、ほぼ確実に交付を受けることができたはず。それが日米安保改定という当時の岸政権が掲げた外交政策に真っ向から反対するための研究であったとしても、である。だから政府が交付する研究費で、誰憚ることなく正々堂々と政府を批判するための研究が可能だった。
だが「研究費は請求しただけ交付せられる」と仁井田が羨望止まずに綴る北京大学において、はたして共産党政府が進める反右派闘争や大躍進に批判的な研究への助成金を申請したとして、「請求しただけ交付せられる」わけはないはずだ。いや反対に、直ちに右派・反革命と断罪され、労働改造所という名の監獄に送られるのが関の山だったろう。
もっとも過酷極まりない反右派闘争を経ることで、毛沢東=共産党に批判的な知識人は社会的に抹殺されてしまっていた。毛沢東=共産党という擂り鉢で知識階層は粉々に砕かれ、残るは郭沫若を筆頭とする知的幇間芸の持ち主か権力に従順な知識人のみ。かくて北京大学においても、毛沢東が指し示すがままに頭脳労働が軽蔑され、汗水流す肉体労働を神聖視する風潮が漲り、肉体労働に対する宣伝が熱狂的に繰り広げられることとなる。
仁井田訪中の前後から全国各地では「教育と生産労働結合展覧会」なる催しが盛んに行われるようになった。北京大学では、このような運動に勇躍参加し好成績(?)を挙げた学生や教授に対し、「肉体労働は、頭脳労働者にとっては共産主義への巨大な溶鉱炉である。そこでは思想的に真紅に鍛えあげられるばかりか、専門性を増すことができる。思想認識の改造のみならず実践経験と生産技術を学習できる。鍛錬の過程で共産主義にとって不要なものを取り去り、不可欠なものを成長させることが可能だ」と賛辞を贈り、大いに讃えた。労働で肉体を鍛えよ。頭は使うな。頭をきたえてはいけない、ということのようだ。
この事実を仁井田は知ってか、知らずか・・・それにしてもノー天気が過ぎる。《QED》