【知道中国 1102回】                       一四・七・仲九

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田4)

「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 

8月10日朝8時すぎに広州を発った仁井田は、武漢、鄭州を経て北京入りする。「北京では人民公社、北京大学、科学院の法学研究所、中央民族学院、アジア学生療養院や法院や監獄も見学した。人民公社座談会、法律座談会などにも出席し」ているが、各所で自動筆記装置ぶりを如何なく発揮してくれた。

 

先ずは北京に野菜を供給している人民公社だが、「戸数は九千に近く、人口は四万に近かった」。「共同食堂は必ずしも利用しなくてもよいというが、利用する家庭ではかまどはいらなくなる。ある農家に入ってみた。旧来の農家ならあるはずのところにかまどがなかった。かまどの神も祀ってはいなかった」。「今日、人民公社のために、家庭はばらばらに解体され、夫婦も別々に集団生活をしているという説がアメリカの雑誌にも出ており、日本人の中にもそのように考えているものがある。しかし私はそのようなことを発見できなかった」と綴る。

 

まあ呆れ返ったゴ仁だが、むしろ仁井田は「そのようなことを発見できなかった」自らの不明を恥じるべきだろうに。

 

やはり食事はエサではない。食事を共にすることは家族・人間関係にとって必要不可欠であろう。台所はエサの製造工場ではない。かまどがなければ、かまどの神を祀りたくても祀れないのは当たり前のことだが、台所は家族生活の中心的な場であり、かまどの神は一家の守り神ではなかったか。加えるに共同食堂だ。合理的に見える制度ではあるが、これほどまでに非合理的で非人間的でムダな制度はなかった。だいたい365日、数百人単位の人いきれの中で朝昼晩の3食を口に掻っ込むことに人間は耐えられるだろうか。再度いいたい。食事はエサではない。憩いを伴ってこその食事である。やがて食材と時間を浪費するばかりで不評だった共同食堂は消え去ることとなった――当たり前のことと思うが、その当たり前のことに、仁井田は気づく素振りすらみせない。

 

北京を武漢と同じように「労働者と学生の街」と見做す。「名勝史跡に休日に行ってみても、若い人たちが大勢きている。かつては労働者はこのようにゆっくりたのしむ時間と金とがなかった」と。だが「かつては労働者はこのようにゆっくりたのしむ時間と金とがなかった」わけではないはずだ。屋台が並び、種々雑多な大道芸で四六時中賑わっていた天橋と呼ばれた庶民の街があり、京劇やら語り物やら色物の小屋が並び、茶館、料理屋、さらには陰間茶屋まで揃った“吃喝嫖賭抽大烟”に“去聴戯”と、凡そ男の遊びという遊びが愉しめたテーマパークのような前門外という脂粉の巷があったではないか。

 

北京大学では「学生は授業料もいらないし、医療費もいらないという。学生はいわゆるアルバイトをしなければならないような状態には置かれてはいない。中国では能力さえあれば誰でも大学で学べる」。「教授は高給をとっている。大学の研究費は請求しただけ交付せられる」と。これが本当なら、学生にとっても教授にとっても、これ以上に恵まれた環境はない。

 

だが仁井田は、毛沢東率いる共産党政権下の最高学府であり、独裁政権維持のための人材養成機関であり、ましてや「反右派闘争」の荒波を体験した北京大学と、東大を筆頭とする当時の日本の大学とを同列に論ずるという決定的誤りを犯していた。授業料やら医療費やらアルバイト以前の問題として、学生や教授を含む北京大学の全構成員に、仁井田ら東大教授を筆頭とした当時の“進歩的知識人”が国策に反対し、政府を蔑み楯突く根拠として金科玉条の如くに掲げていた思想信条や学問の自由などありうるワケはなかったはず。仁井田は、その点に言及していない。故意なら犯罪、偶然ならマヌ・・・ケ。《QED》