【知道中国 1101回】                       一四・七・仲七

――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田3)

「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)

 

続いて鼠退治の方法だが、「時間をきめて一時にどぶに薬をまいて殺してしまう」とのこと。いやはや凄まじいかぎりだが、かくて仁井田は「私は中国のどこへ行っても雀を見なかった。蠅も蚊も絶無ではないが、みつけ次第退治られてしまう。各地を廻ってから後の感じであるが、都会よりも農村の方にハエがいない」と大いに感心を示す始末である。

 

仁井田は、案内役が説明するがままに雀や鼠の退治方法を記すが、いったい、そういった雀退治の方法に駆り出される住民のエネルギーや手間暇を考えたことはあるのだろうか。雀は穀物を食い荒らす害虫を食べてくれる益鳥であることに、あるいは鼠殺しのために「一時にどぶに」撒かれた薬の量と成分に思いを巡らすことはなかったのだろうか。

 

仁井田は法律や訴訟関連の古文書からだけでなく、古典小説やら戯曲、芝居などの裁判場面などからより実態に即した法制史研究を開拓したと高く評価される。じつは京劇では恨み辛みだけでなく、金銭目当ての殺人などで登場する劇薬の多くは耗子薬、つまりネコイラズである。であればこそ、耗子薬が古くから人殺しに使われるほどの劇薬であったことを仁井田は知っていたはず。耗子薬から「四害退治」でドブに撒かれた薬の残存薬害を連想してしかるべきだったと思うが、相手の説明を鵜呑みにして疑問を抱くことなく、ひたすらノー天気に自動筆記装置に徹しているだけ。こういう頭脳構造をオ花畑というのか。

 

昭和21(1956)年のサンフランシスコ講和会議に臨むに当たって、中ソ両国が激しく世界覇権を争っていた時代であるにもかかわらず、ソ連など社会主義陣営とも講和条約を結べと非現実的な寝言・戯言の類を「全面講和論」と糊塗して力説していた南原繁東大総長を、当時の吉田茂首相は「曲学阿世!」と罵倒し退けたが、どうやら曲学阿世は南原だけではなかった。仁井田もまた正真正銘の、リッパな曲学阿世の一員だったようだ。

 

「中国に入って第一日の宿舎は愛群ホテル」である。これも当時の規定のコースだ。ホテルの担当者は「中国国際旅行社に属しつつ『下放』――一定期間、幹部が肉体労働に参加すること――を志願してこのホテルのボーイをつとめている」そうだ。ではなぜ「下放」が行なわれるのか。「中国ではこのような労働を通じて労働者農民に服務する幹部となるような訓練と学習が行われ、このことによって官僚主義――役人や政治家のから威張りや不親切――がとり去られる」とのことだが、「このような労働を通じ」た程度で、“中華数千年”の歴史に“鍛造”された官僚根性が改まる訳はないだろうに。

 

台湾生まれで仙台の旧制二高から東北大学医学部に進み、46年には台湾経由で大陸に渡り北京で図書館長を務めた楊威理が共産党治下での悪戦苦闘を綴った『豚と対話ができたころ  文革から天安門事件まで』(岩波書店同時代ライブラリー 1994年)に、「一九六三年、河南省などの農村調査の文献を見る機会があったが、文献が私に与えた印象は、陰惨でぞっとするものであった。富む者は富み、貧しい者は生活のどん底に押しやられている。農村の幹部は悪辣を極め、汚職、窃盗、蓄妾などは朝飯前のこと、投機買占めが横行し、高利貸しが流行り、一口でいえば、農村は生き地獄そのものである」と記されている。

 

これに続いて楊威理は、「農村の末端組織の三分の一が既に共産党の手中にな」く、農村には「幹部などで構成されている新しい裕福な農民階級が出現し」たと「毛が断定し」、劉少奇もまた同じような内容を講演していたと綴る。仁井田訪中の数年後のことだ。

 

この情景は、21世紀初頭の現在の金満中国から伝えられる農村の惨状に酷似している。やはり中国は昔に戻ったのだ。歴史的に振り返れば、中国では、どの時代のどのような政権下であれ、地方権力者のさもしき根性を叩き直すことなど不可能に近いのだ。これは中国社会知識のイロハだろうに。それすら弁えない仁井田・・・じつに困ったものです。《QED》