【知道中国 1100回】 一四・七・仲五
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田2)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
「中国の旅」の前に、当時の社会情況を象徴するような2つの資料を見ておきたい。
その1は、仁井田訪中の1年前の58年9月2日付で告示された「愛国公約」だ。「整風(=反右派闘争)と総路線の学習を経て高められた政治的基礎の上に、大いに意気ごみ、高い目標を目指し、より多く、早く、立派に、節約して社会主義総路線を建設するために、我われ一家を挙げて以下の各項を達成することを保証します」と冒頭に記された後、「以下の七項目」が続き、末尾に署名欄がある。ということは家族ごとに署名させ、各項目を実践することを誓約させようとしたものだろう。
「一、社会主義政治思想を高めることを努め、断固として社会主義の道を堅持する。
二、社会主義建設総路線を積極的に学習し支援し、迷信を取り払い、思想を解放し、勇気を持って自ら考え、話し、為す共産主義の振る舞いを体現する。
三、勤倹努力し家庭を営み、浪費に反対し、食糧、電気、燃料、布を大いに節約し、支出を抑え、余った金は貯蓄し、工農業の大躍進を支援する。
四、政治理論の技術と文化の学習に励み、刻苦勉励して科学技術を研鑽し、頭を働かせて人々に役立ち、大胆に創造し発明に励む。
五、国を愛し法律を順守し、社会のあらゆる活動に積極的に参加し、政府の掲げる一切の呼びかけに呼応し、党と政府が指し示す様々な工作任務を指示された期限内に完成させるよう努力する。
六、近隣と自分の家の固い団結を保証し、他人と自らを批判することに大胆に取り組み、互いに助け合い、共に向上する。
七、清潔を求め、よりよい衛生環境に努める習慣を養い、四害を消滅させる」
随分と立派なことが書かれているが、そんなことを、あの、超ジコチューな中国人が実践するわけがない。かりに「愛国公約」の拳々服膺を厳命すれば、中国人は“共産主義的聖人君子”に生まれ変わるとでも毛沢東が考えていたとするなら、随分と間抜けな話だ。だが、なにはともあれ、「愛国公約」は当時の中国のタテマエを物語っている。
その2は、50年代末に使われていた「発展」印マッチのラベルに記された文字だ。「さつま芋は宝の中の宝、値段も安く栄養価も高い。さつま芋をいっぱい食べてコメや麦を節約し、国家の立派な建設を支援しよう」とある。「愛国公約」がタテマエなら、こちらはホンネといえるだろう。当時の人々は、どんな気持ちでマッチ箱を眺めていたことだろうか。
当時の庶民生活を想像すると、朝な夕なに「愛国公約」を拳々服膺し、その達成を誓い、マッチを擦る毎に、さつま芋の有難さを感じ取ったというのか。これじゃあ毛沢東時代の中国大陸は、冗談ではなく、掛け値なしに超巨大な北朝鮮でしかない。
以上の予備知識を頭の片隅に置き、仁井田の「中国の旅」を“楽しもう”ではないか。
香港から深圳を経て広州へ。当時の規定招待コースを辿ったが、一時下車した広州の手前の駅前で「『徹底的に四害を退治せよ・・・・・』(徹底消滅四害云々)という標語が高々と立札に書いてある」風景を目にする。案内役の説明では「四害」とは鼠・雀・蠅・蚊のことであり、「数年も前からこれらを除く運動がつづけられ、蠅も蚊もとっくの昔にほとんどいなくなった」とのこと。雀は「木に止まらせない。とまりそうになると木の下に人がいて追い立てる。雀はしまいには血圧が高くなってふらふらして落ちてくる」とか。ところが雀を取りすぎたお蔭で、害虫が大量発生し穀物が食い荒らされ大被害。そこで雀は「四害」から外された後に、「益鳥」としての名誉を回復されている。
この雀の捉え方に疑問を持たないとは・・・やはり仁井田センセイは奇妙奇天烈だ。《QED》