【知道中国 926】 一三・六・念五
――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の14)
「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
蘇州の庭園には余ほど癪に障ったらしい。「どの庭もそうだが、岩はセメントでつなぎ合わせて色々奇妙な形を拵えてある。岩の肌もセメントの様な色合いだ。セメントの継目が目立たぬ様に特にセメント色を選んだものか、と思ってみたが、そこまで気を配ってはこんな馬鹿げたものが出来る道理がない。してみるとこの辺はこんなやくざな石しか転がっていないと見える」。だからこそ「竜安寺の庭を知っている僕等には、言葉もない」ということになる。
ならばトットと出てしまえばいいだろう、と他人事ながら思う。だが、どうやら「一たん這入ると直には出られない様な仕掛けになっている」らしい。
庭園は「可成の広さだが、それを出来るだけ長い事かかって歩かせる様に」なっている。石畳の小径が曲がりくねっていて、「向うに連れて行かれたり、こっちに連れ戻されたり」。ともかくも「馬鹿馬鹿しさ」と「洒落にもならぬ様な俗悪さ」に溢れている。だが「無論庭師は大真面目に違いない。その大真面目に違いないという処が僕の理解の範囲を越え」ている。
この庭園は「精錬された味いも素朴な味いもなくただ馬鹿馬鹿しいなりに完全」である。こんな庭を享楽するヤツは「馬鹿馬鹿しく而も完全」な精神も持ち主だろうと考えたところで、小林の思考は突如として飛躍する。「若し女を抱いて阿片など食らって、この庭を眺めたらどうだろう。極楽の夢を楽しむには、あのセメント製の奇岩奇石が、抜き差しならぬものとはならないかという考えが浮かんだ」のだ。
どうやら「馬鹿馬鹿しく而も完全」な精神も持ち主だけが、「女を抱いて阿片など食らって、この庭を眺め」、「洒落にもならぬ様な俗悪さ」に耽溺できるらしい。
ここで小林の視線は日本に転ずる。
確かに「現代の日本の趣味は混乱している。だが混乱しているので決して頽廃しているのではない。あの庭の様な趣味の頽廃というものの慎重を極めた象徴を、僕等のうち誰が作り得よう」。どうやら「頽廃というものの慎重を極めた象徴」を、小林は蘇州の名園から体感したようだ。
小林は蘇州を指して、「この街は(南京でも杭州でも同じ事だが)、古く美しい記念碑を失って了っているが、住んでいる人々の心も同じ事ではあるまいか」と疑問を投げ掛けた後、「彼等はただ蒲公英の綿毛の飛ぶのをみている。現代の日本人が古い日本を知る事に較べれば、現代の支那人が古い支那を知る事は、遥かに難しい事ではあるまいか」と。これを言い換えるなら、「生活というものの他何も目指さ」ない生活ということだろう。「蒲公英の綿毛」のような生活。昨日もなく、明日もない。ただ今日あるのみ。
寒山寺という蘇州の名刹に行ってみた。
「無論期待しては行かなかったが、これほど殺風景な寺とは思わなかった」。「手の付けられぬ荒れ方だ」。「仏殿のなかは、さながら石摺り工場だ」。古今の名文が刻まれた碑のうち「古いのは、さんざんに壊れ、破片を重ねて壁に塗り込んである」。拓本摺りの「職人達は、恐らく嘗て知らぬ多忙を経験している」。それというのも、寒山寺に残る碑文の拓本を求める日本兵からの注文が殺到しているからである。
石碑が壊れることなんぞ気にしてはいられない。商売、ショウバイである。「生活というものの他何も目指さ」ない生活だからこそ、それでいい。それでいいわけだろう。《QED》