【知道中国 923】                      一三・六・仲九

 ――「喧噪と臭気との他弁別し難い様な人の波だ」(小林の11)

 「杭州」「満州の印象」他(小林秀雄『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 「毎日午後から一円五十銭で車を雇い」、「国民政府だとか軍官学校だとか中央大学だとか其他いろいろの官立の建物を教えられたままに見て廻った」が、「どれもさしたる興味は覚えない」。「蔣介石十年の苦心経営というものは、明瞭に頭に来た。だが建築はどれも宏壮なものだが、落ち着きのない安手なものであった」。

 ここに見える「頭に来た」という表現は腹を立てることを意味する現在のアタマにキタではなく、判然と了解できたといった類の意味合いだろうか。それにしても「建築はどれも宏壮なものだが、落ち着きのない安手なもの」とは、現在の中国の都市に林立する超豪壮マンションにもピッタリの表現だ。やはり見掛け倒しという伝統は脈々と続いている。

 小林の目に「役所と道路だけが不自然に幅を利かせている街」と映った南京では、「まだ街の生活は始まっていない。街は思ったより、ひどい戦禍を蒙っている」。戦のなかった「杭州から来た僕の眼には、戦のあった街となかった街はこうも違うものかと映った」。活気もなく、物資は貧しく、そのうえに「人々の眼差しの相違は心に滲みた」という。 

 かくて小林は「南京は経済の中心地として、民衆の実生活の力で大をなした街ではない、政治的宣伝の中心地である。だから一たん壊れると、回復も容易な事ではあるまいと思われる」と、中華民国政府が立ち去った後の南京に思いを致すが、返す刀で「それしても、日本のポスターの貧弱さにはつくづく呆れる」と、日本の拙劣な戦時宣伝・宣撫工作に言及する。

 戦闘が一たん終息した直後の慌ただしい時期だから致し方がないとはいえ、これから先はどうなるのか。「銀座の喫茶店に掛ける程の恰好のやつをいくら持って来ても、そんなものは眼になど決してつきはしないものだから持って来ない方が増しな様なものだ。例えば上海に居る人で、白天紅日之下、可保安居楽業と書いた日の丸の旗の下で百姓が働いている拙劣極まるポスターが、何処に貼ってあるのか知っている人は殆どいないだろう」と、半ば呆れ気味に記す。

 宣伝戦や謀略戦においては筋金入りの中国側に対し、日本は余りにもウブではある。真っ正直が過ぎる。確かに効果の期待できそうにない「何処に貼ってあるのか知っている人は殆どいない」ような場所に、「拙劣極まるポスターを」貼ったところで全く無意味だろから、小林の言い分は正論といっていいだろう。

 だが城外の玄武湖で客待ちの「船頭の大半は子供であるが、暇なので湖畔の草の上で賭博をやってい」たり、大人を相手に「子供が一人でルーレットに銅貨を張って」いたり、勝てば勝ったで「子供も無言で勝った金を握って行って了った」り、大人も子供も「純然たる商売の取引」として博打に興じている様を目にすれば、こんなすれっからしの子供が大人になった日には、とてもじゃないが身も心も和む安心した付き合いなど金輪際できそうにない。

 正常な神経を持った日本人だったら、やはり“お友達”にもなりたくない。ならば、どうすればケイ(敬、軽?)して遠避けることができるのか。日本としては、そいつを一度シュミレーションしてみる必要もあるのでは、と考えることもある。

 宿舎に「帰ったのはもう日暮れだった」。「支那料理屋に這入ってビールを呑む」。「そこにいる三人の支那人の女給」に10銭ずつ渡すと、彼女らも「ビールを飲み、訳の判らぬ高音で大はしゃ」ぎ。小林は焼豚を注文し、「彼女達にも取ってやった」のだが・・・。《QED》