【知道中国 1033】                        一四・二・初四

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の8)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

香港を背に中国大陸の方向に「ひたすら前向きに動いていった」中島の目の前に広がった光景とは、「あざやかな赤い色! 赤い布をまいた柱、赤い旗、赤いポスター」。「その時の印象は、まことに強烈であった」。素直といえば素直としかいいようはないが、この段階で既に中国側にしてみれば中島なんてチョロイもの。煮て喰うおうが焼いて喰うおうが、自由自在。自家薬籠のうち、といったところだろう。

 

林立する赤旗を前に、中島は「この日は、ちょうどソ連の一〇月革命の四〇周年の日であった。もしも日本にいたら、わたくしも、この記念日を、大して気にもとめずにすごしてしまったであろう。もちろん、日本の町の中には赤旗一つ立っていないはずである。突然わたくしは、歴史の流れが、自分を洗っているように感じた。四〇年といえば、わたくし自身の、物心ついて以来の歳月である」と感激一入の態を隠さないが、異国で赤旗を目にして「歴史の流れが、自分を洗っているように感じた」などと恥ずかし気もなく記してしまうわけだから、当時の40歳にしては純情が過ぎるというものだ。いや、やはり中島の歴史感覚・歴史認識に疑問符をつけないわけにはいかない。

 

「中国では、名刺を使わない。紹介もするし、名のりもあげるが、日本人のようにむやみに名刺の交換はやらないのである」と、何やら大発見でもしたかのようだ。その訳を中島は、「一度や二度あって、名も覚えないでそれきりになってしまうような交際であったら、別に名刺など交換する必要はない、という説明も聞いた」し、「さらに、何度も会っているうちに、ほんとうに親しくなるのだから、名刺などはいらないでしょう、という説明も聞いた」からだと記す。

 

さらに中島は名刺と人付き合いに関する自らの経験を踏まえ、「わたしは名刺を交換したがる日本人と、名刺を使わない中国人との対照に、深い意味があるように思った」とする。だが、そこに、どんな「深い意味がある」というのか。そこで中島の考えを追ってみると、「日本人は、一見旧知のごとくで、すぐに心やすくなる。しかし、どこまで相手を理解した上での交際であるのか、疑問の場合が多い」。「日本人は、一度でも一しょに“めしをくう”や否や、相手を親友あつかいする。そのくせ、こちらの都合しだいで、わけもなく同じ相手を敵扱いする」。これに対して「中国人の場合は、はじめからいんぎんなつき合いをするが、気を許すまでには、かなり時間がかかるのであろう。その代り、一度信用したら、それこそ、恐ろしほど信用しつづけるようである」というのだが、「戦争中の南洋華僑との交際で経験した」ことから、中国人に対しそういった思いを抱くに至ったという。

 

だが果たして中島が交際した「戦争中の南洋華僑」にしてから、本当にそうだったといえるのか。

 

日本人は他人を無防備・無批判に信用するが、自分の都合で簡単に敵視に転じがち。一方、中国人は容易には信用しないが、いったん信用したらトコトン信用し続ける――これが中島の考えだろう。中国人に対する認識に関してはともかく、中島のような“日中友好人士“に関しては他人を無防備・無批判に信用、いや盲信する点は確かなようだ。

 

たとえば毛沢東から「日中両国人民は共に日本軍国主義者の犠牲者だ」と言われれば大感激し、時に「共産党の勝利は日本軍のお蔭だ。日本軍に感謝している」と告げられれば“懐深い大人”と大感涙に咽び、結果として毛沢東を信奉し、その戦術的な発言に翻弄され、戦略的振る舞いを誤解し称揚し、操られるが儘に日本と日本人を貶めようと努めた。おまけに新潟県の高田連隊で学んだから?介石は親日であるはずだなどと妄言を繰り返す。

 

専ら中国側の掌の上で踊らされた、この種の困った方々が日中友好を叫んだのだ。《QED》