【知道中国 841回】                一三・一・初一

 ――言わせておけば、いい気になって・・・(2)

 『中華文明的根柢  民族復興的核心価値』(姜義華 上海人民出版社 2012年)

 「いま中国は崛起している。中華民族は大復興を成し遂げつつある。これは既に争うことの出来ない決定的な事実だ」という基本認識に立つ著者は、「中華民族の復興は、マルクス主義の中国化、中国の特色を持つ社会主義建設と極めて密接に関連している」とした後、「中国化、中国の特色とは、とどのつまり中国の現実に依拠し、当今の世界の現状に立脚し、歴史が我らに与えてくれる各種の資源と凡ての客観条件を充分に活用し、中国自身の発展の道を歩み、中華民族自身の発展の道を歩み、中華文明自身の発展の道を歩むことである」と記し、中国、中華民族、中華文明の連呼へと繋げる。

 アヘン戦争以後の近現代において、「中国、中華民族、中華文明は西洋資本主義による空前の激越な挑戦に晒され」、「数千年来、いまだ遭遇したことのないような危機に陥った」。だが「中国社会の精鋭、草の根の大衆は身を挺して決起し、国家主権の守護、民族独立の防衛、自らの偉大な文明の復興のため次々と死を賭して戦った。民族復興は人びとが1世紀半以上にわたって共に奮闘を続けた必然的な結果であり」、「中国は中国自身の道を歩むしかない、中華民族は自らの道を進むしかない、中華文明は中華文明の道を辿るしかないということを、人びとが愈々もって明確に認識するようになった」と主張する。

 これまで共産党は1949年を境に、それ以前を「旧中国」、以降を「新中国」とし、前者を全面的に否定する一方で、後者を無条件に讃えた。毛沢東が創建し率いた共産党があったからこそ、「西洋資本主義による空前の激越な挑戦」を跳ね除け、「他から侮られない中国」(毛沢東)を築くことが出来た、というわけだ。

 だが著者の主張に従うなら、どうやら従来から行われていた中国を「旧」と「新」とに峻別するという“公式的歴史認識”は否定してもよさそうだ。「中国社会の精鋭、草の根の大衆は身を挺して決起し、国家主権の守護、民族独立の防衛、自らの偉大な文明の復興のため次々に死を賭して戦った」ということは、言外に共産党だけが戦ったわけではないということを意味しよう。「旧」も「新」もない。一貫して中国は中国だった、ということか。

 かくして著者は「中国は中国自身の道を歩むしかない、中華民族は自らの道を進むしかない、中華文明は中華文明の道を辿るしかないということを、人びとは愈々もって明確に認識するようになった」からこそ、「いま中国は崛起し」、「中華民族は大復興を成し遂げつつある」と熱っぽく語り、「大一統(漢族に拠る単一民族国家を棄て、多民族によって統一された単一国家制)」、「家国共同体(個人、家庭、家族、民族、国家を一貫した同心円的社会共同体)」などの伝統的な統治思想に基づく「中華民族の核心的価値観」を一心不乱に称揚する。かつて彼らが身を焦がしたはずの毛沢東思想の「も」の字も見当たらない。

 著者は「中華民族の大復興」を支える大きな基盤であろう経済力の淵源を、「中華経済倫理の核心的価値」――「義を以って利を制し、道を以って欲を制する」という伝統的経済倫理――に求めている。「義を以って利を制し、道を以って欲を制する」とは言いえて妙。だが現在の中国で、かくも尊い「中華経済倫理の核心的価値」を体現している企業家がいるわけはないだろうに。大部分は《偽を以って利を謀り、虚を以って欲を逞しくする》の類でしかないはずだ・・・こうして著者は、現実無視のダボラに酔い痴れるのだ。《QED》