【知道中国 1034回】 一四・二・初八
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の9)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
今や中国で金権腐敗が最も日常化し、第2次大戦前の上海の魔都ぶりを遥かに凌ぐほどに爛熟した街とも形容される深圳も、かつては「赤い中国」の南の玄関口だった。であればこそ「あざやかな赤い色! 赤い布をまいた柱、赤い旗、赤いポスター」に溢れていたとしても、なんら不思議ではない。それというのも、香港側の羅湖を離れ深圳河に架かる橋を渡り切った瞬間から、中国側の洗脳工作が本格化したからだ。
訪問者は、先ずは目に飛び込んでくる真っ赤な風景に度肝を抜かれる。次が音、それも大音響である。中島は記していないが、その時、「東方紅」「義勇軍行進曲」「国際歌(インターナショナル)」などの勇ましい音楽がスピーカーから大音量で流れていたに違いない。視覚だけではなく聴覚をも一緒に激しく刺激することで、「赤い中国」は訪問客の脳ミソに入り込んでしまう。真っ赤な風景に目はチカチカ、大音響に頭はガンガン。深圳は洗脳工作の第一関門だった。
第一関門の深圳を通過すると、次に中国各地の訪問先で待ち構えていたのが“熱烈歓迎”である。食欲、色欲、知識欲・・・ありとあらゆる欲望を心地よく刺激しながら本格洗脳工作が進められた。やがて深圳から香港を経て日本へ。帰国後は、政財界やら文化学術の世界で“進歩的立場”に立った振る舞いをみせ、世論をミスリードしていった。
ここで改めて、49年の共産党政権成立から10年ほどの間の日中両国の人的交流を数字で振り返ってみると、日本人の訪中は49年、50年はゼロで、51年の9人が建国後の初訪中者。以後、50人(52年)、139人(53年)、192人(54年)となり、やがて847人(55年)、1182人(56年)、1243人(57年)と急増する。ところが、1243人を頂点に594人(58年)、191人(59年)と激減する。59年からは再び増加に転じ、623人(60年)、557人(61年)と推移する。
一方の中国からの訪日者は、49年から53年まではゼロ。10人(54年)、100人(55年)、142人(56年)、145人(57年)と着実に増加していたものの、93人(58年)に激減。0人(59年)だったこともある。以後、13人(60年)、85人(61年)と増加に転じた。
以上は、『日中問題入門』(岩波新書 1962年)の巻末に付された資料から引いた数字だが、なにせ“天下の岩波新書”である。この数字に、よもや間違いはないだろう。
一貫して日本からの訪中者の数が圧倒的に多いが、いわば人間の“出超情況”こそ中国側が極めて熱心に日本人洗脳工作を進めていたことの傍証といっていえそうだ。
日本では吉田反共政権の後、54年末から57年初にかけて鳩山(第1次~3次)と石橋の両親中政権が続いたことが、訪中者の急増の背景にあった。いいかえるなら、この時代に中国側の洗脳工作が積極化していたはずだ。ところが石橋短命政権の後継として登場した岸政権が台湾の蔣介石政権に急接近し反共路線を色濃く打ち出すや、訪中者は激減に転じた。中国側の日本人洗脳工作の先細りが想像できよう。その後、岸政権が日米安保条約改定に乗り出したことで安保反対闘争が盛り上がりをみせるようになると、再び訪中者は増加傾向をたどる。安保反対闘争をテコに岸反共政権を打倒し、あわよくば親中政権を誕生させようと狙っていたと考えられる。
中国からの訪日者数の増加は、やはり毛沢東の独裁体制強化と重なるようだ。0人になった年もあるが、その背景として大躍進政策の失敗が指摘できる。毛沢東による現実無視の政策によって、中国全土が破滅的な飢餓地獄に陥ったのである。訪日工作などといった余裕すらなかったはずだ。
中島は、「ソ連の一〇月革命四〇周年記念祝典のかざりだらけ」の広州に到着する。《QED》