【知道中国 1035回】 一四・二・一〇
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島の10)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
中島は「早くもわたくしは、この祝典の空気になじんでいる自分を発見した」と、ソ連10月革命40周年記念祝典の飾りに彩られた広州に好感を抱く。その時、おそらく広州の街は真っ赤に染めあげられ、朝も早くから耳をつんざくような大音響が流れていたに違いない。中島に対する色と音の政治宣伝の効果がジワリ、と効いてきたようだ。
その夜、広州対外文化協会からの招待宴に臨む。
先ず招待者側は、「中島先生が、中国と日本の文化交流のために努力されていることを感謝いたします。中国と日本とは二千年にわたる長い友好の歴史を持っています。両国の人民は、ますます相互理解を深めて、友好を固くしなければなりません」との“形通り”の挨拶で、例によって例の如く熱烈歓迎の姿勢を示した。
次に中島が立ち上がり、「新しい中国の建設については、深く敬意を感じておりました。今、まのあたりにその実状を拝見することができて、大へん嬉しく思います。わたくしたちにとって最大の念願でありますが、両国の国交がまだ正常化していないことを心から残念に思います。またわたくしたちの力が足りないために、文化交流について、じゅうぶんな仕事ができないことを恥ずかしく思います。しかし、近い将来には、必ず国交も正常化し、両国人民の共存共栄の実があがると信じます。その時のために、文化交流によって両国人民の相互理解を深めることができれば、これほどうれしいことはありません」と“形通り”の挨拶を返した後、これまた“形通り”に乾杯(カンぺー)である。
中島は「はじめての時には、多少固苦し感じであった。しかし、何度もくりかえしているうちに、このあいさつが、かけねなしの正面切っての真情であることがわかって来た。/誠心誠意、この通りに感じていれば、すこしも照れることはないのである」と記した。
「誠心誠意、この通りに感じていれば、すこしも照れることはない」などと、大の大人が恥ずかしくはないのかと呆れ返るが、そこが洗脳工作の妙であり効果というものだろう。それにしても、この種の挨拶が数限りなく応酬され、「子々孫々まで繋がる日中友好」のお題目が条件反射的に繰り返されたことは想像に難くない。じつは日本側は文化交流は文化部門における交流のみと思い込んでいる。だが中国側にしてみれば、文化もまた政治の一環であり、であればこそ文化交流は政治工作の重要な部門だったのだ。何から何までが政治であり、文化を巧妙に政治に組み合わせることに長けた民族であることは、文化に革命を掛け合わせた上に大の字で粉飾した文化大革命の5文字が見事に象徴していたはず。
中島は「ソ連の革命記念日の祝典のための飾りつけをみながら」、「国境の意味を感覚的に味わいかえ」す。そして英国植民地の香港とは違い、「こちらがわには広大な地域がつづいている。国がちがい、民族がちがっても、こちらがわにある国境は、あの国境とは意味がちがうのだ。わたくしたちは、比較的かんたんにその国境をこえて入国することができた。しかし、この門は、あけ放しの門ではない。すでにわたくしたちは、こちらがわにいる」と、感慨を漏らす。だが、なにがいいたいのか。甚だ意味不明としかいいようはない。
結局、国境の「こちらがわ」は、「今は、たしかに安定し、ここでも“社会主義建設”がさかんにつづけられてい」て、「前途が明るいのは、なんといってもうらやましいことである」と主張したいのだろう。だが、当時は反右派闘争の悲惨極まりない後遺症が、社会の隅々にまで暗い影を投げかけていたはずだ。その点に気づかなかったのか、気づかせなかったのか。中島の眼が節穴なったのか。中国側の招待術が巧妙だったことは確かだろう。
この翌年から4500万余の餓死者をだした悪名高い大躍進政策がはじまる。「前途が明るいのは、なんといってもうらやましいことである」とは、ノー天気が過ぎます。《QED》