【知道中国 857回】 一三・二・初五
――彼は「赫々たる軍功」を望んでいた・・・だけなのか
『遠征印緬抗戦』(中国文史出版社 1990年)
副題の「原国民党軍将領抗日戦争親歴記(元国民党軍将官、抗日戦争回想記)」が示しているように、41年12月から45年3月前後まで滇西(雲南西部)、緬(ミャンマー)、インド東部を戦場に展開された「抗日戦争」に参戦し、最前線で兵士を指揮・督戦した国民党軍将官たちの回想録である。「中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会《遠征印緬抗戦》編審組織」を名乗る機関が編集した点から判断して、この本出版の目的は、当時の台湾で劣勢に立たされていた国民党に向けた統一戦線工作にあったようにも思える。
80年代後半から90年代初頭の台湾では、圧倒的影響力を発揮していた李登輝の下で独立への熱い気運は全島を覆い、その勢いのままに民進党から陳水扁総統が生まれ、国民党は野党に転落する。圧倒的多数の本省人の前に、国民党を支える外省人は苦境に立たされてしまう。そこで「抗日戦争を共に戦った」というエールを送り国民党に“喝”を入れることで、北京は台湾独立の動きを牽制しようと狙ったのではなかろうか。
この戦域での国民党軍の象徴的指揮官として知られた杜聿明以下、台湾在住者も含め30人ほどの元国民党将官が“勝てば官軍”よろしく彼らの勇猛奮戦振りを回顧する。それらを日本側の記録に照らして詳細に検証すれば、彼らの証言が事実か、ホラか、それとも粉飾か。いずれ判明するだろう。敢えていうまでもないことだが、彼らが得々と語る自らの“赫々たる軍功”については、やはり眉にツバをつけながら読むしかない。
この本を読んで興味を引かれるのは、「抗日戦争」に大きな影響を与えたはずのスティルウェル中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀に対する元国民党軍将官たちの考えだ。
インドに送られた新編第一軍軍長で、後に駐印軍副総指揮を務めた鄭洞国は、「私の見たところ、中国にやってきたスティルウェルには米政府を代表して支援物資の運用を監督する一方で、個人的な目論みがあった。『中国通』を自認する彼は中国の将兵と米国からの支援装備を利用し、極東の地に自らを主人公とする英雄的事績を打ちたてようとした。先ず中国軍の指揮を可能にすることを望み、次いで中国軍将官を米軍将官に交代させ、植民地式軍隊への編成を企図し、米資本による中国制圧を図り、その代表を狙った」と述懐する。
一方、滇西に進出した日本軍をミャンマー東北方面に後退させた遠征軍第十一軍総司令で、スティルウェルと2回だけ話をしたことがあると振り返る宋希濂は、43年春の昆明で彼との会話を、「(国民党)政府機関は腐敗無能で行政能力は劣悪だ。インフレは際限なく、人民の生活は痛苦の極みだなどと話した後、私が米軍による兵員と器材の補充は遅きに過ぎると口にするや、彼は直ちに立ち上がって右腕を振りながら、中国語の大声で『ダメだ、ダメに決まってる。腐っている、腐り切っている』と激昂し、事例を挙げながら(国民党)軍政部を辛辣に批判した。『米国が中国に供与する大量の物資は、米国納税者のカネなんだ。貴様ら(国民党)軍政部に与えたが最後、正々堂々と掠め取られてしまう。(援助した)薬品や通信器材なんぞは、路上で買える始末ではなあいか。貴様らの政府はデタラメが過ぎる。ならば、どうして戦勝など望めよう。ルーズベルト大統領にしても、米国民に何といったら申し開きが立つんだ』と罵った」と回想している。
かく語られるスティルウェルの振舞いを当時の日本軍中枢は如何に判断し、彼と国民党、共産党、民主派、コミンテルンとの関係を、どのように看做していたのか。将来の日・米・中関係を見定めるためにも、この点を深く掘り下げておく必要があるはずだ。《QED》