【知道中国 439回】 一〇・八・念八
『シャム・ラオス・安南三国探検実記』(岩本千綱 中公文庫1989年)
巡礼僧に扮した著者は「明治二十九年十二月ニ十日、山本鋠介氏とともにシャム[暹羅]国バンコック[磐谷]府を発し、翌三十年四月九日、安南国[ヴェトナム]東京[北ヴェトナム]ハノイ府に出でたり。この行通過せしはシャム、ラオス[老撾]、安南三国跋渉せし山河は無慮一千二百マイル、ために一百十一日の日子を費やし」た。この間の悪戦苦闘・痛快無比の徒歩行が綴られている。初版は明治三十(1897)年の出版だ。
いまから110年余り昔、「猛獣、毒蛇の害は言を待たず、群盗昼出でて人を殺し、時に森林悪熱、猖獗を極め、命を殞す者十中八、九なるを常とす」る一帯を、ことばも判らず地理も不案内なまま歩こうと思い立ち、実際に踏破してしまう行動力が何によって齎されるのかは不明。だが、少なくとも「異文化との共生」とか英語コミュニケーション能力涵養による国際化などいう昨今の文部科学省式教育で得られないことだけは、確かだろう。
著者に拠れば土佐出身で陸軍幼年学校、士官学校を経て任官したが、不図したことから上官の忌避に触れ軍を離れた後、シンガポールからシャム(タイ)を貧乏旅行。当初は熊本農民のタイ殖民事業に乗り出す。これに宮崎滔天が一枚噛んでいたというから面白い。この事業が失敗したことで宮崎の関心は孫文による中国革命支援へと移り、一方の岩本はタイとの貿易事業に手を染めるものの、これまた失敗。かくて「この国(シャム)存亡は東方の大勢に関するところじつに尠なからず」と確信した末に、この探検旅行となる。
著者は名古屋出身の山本と共に「托鉢 一個、毛布 一枚、蝙蝠傘 一本、キニーネ、コロダイン 各一瓶、宝丹 一個、磁針器 一個、地図 一葉、および日記用の紙筆墨のみ」を手に先ずバンコクからアユタヤへ北上。道を東に取り東北タイの要衝・コーラートで北に転じた。ノンカイでメコン川を渡ってヴィエンチャンから仏都・ルアンプラバンへと進んだ後、東北方面に向かい黒河(タイ川)、紅河(ソンコイ川)を越えハノイへ向かう。
興味深い観察が続くが、なかでもが特筆すべきは中国人に関する記述だろう。
「(コーラートの)戸数四千余、人口殆ど四万に近し。おおむね商いを以って業となす。居民は支那人その半数を占め、・・・また支那人が営むところの商業は過半まで諸物産の問屋にて」、「支那人の問屋商を営むもの盛んに諸種の産物を収集し、これをバンコックに送」る。「今バンコックの人口を仮に四十万と見做し、その半数を支那人」として、「蓋し支那人は日本商店の商品といえば手をだも触れず」、「支那人は資本豊富なる上数十年の経験を積み、かつ忍耐結合の二力に富み商界を疾駆す」。だが、日本人である著者に対する彼らの「待遇の冷淡なる頗る無礼を極め」たそうだ。
「猛獣、毒蛇の害は言を待たず、群盗昼出でて人を殺し、時に森林悪熱、猖獗を極め、命を殞す者十中八、九なるを常とす」る時代に、「三国」の都市はもちろん、農村のどんなちっぽけな集落であれ、山間の村々であれ、「忍耐結合の二力に富」んだ中国人が中国人としての生活を牢固として守りながら生活していたという事実には、やはり考えさせられる。
「(明治三十年二月)十一日晴 今日はこれからわが皇祖神武天皇の即位紀元節に相当すれば、昧爽起って水浴し遥かに東天を拝して皇運の無窮を祝し奉れり。またこの日一日当村に滞在し、村賓として大饗宴を受け」ている。著者は、どこまでも日本人だった。 《QED》