【知道中国 1036回】                       一四・二・仲二

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島11)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

中島は、中国側の国境を「あけ放しの門ではない」と形容する。じつは毛沢東は建国を達成するや、国境を「竹のカーテン」でぐるりと取り囲み、かくして国を閉じてしまった。そこで「あけ放しの門ではない」ということになるわけだが、その結果どんなことが起こったのか。

 

毛沢東の時代について、ハンガリー生まれのフランス系ジャーナリストのチモール・メンデは「昔から今日まで、積もり積もった不満は共産主義という思想のセメントと混じり合って、中国を外国から隔離する、新しい万里の長城の土台となっているのだ。しかも、この新しい万里の長城は、蛮族の侵入を防ぐために構築された、かつての石と煉瓦の万里の長城より、遥かに効果的に中国と外国との交流を阻止する障害となっている」(『中国とその影』弘文堂 1962年)と評したことがある。ここでいう「新しい万里の長城」こそ、「竹のカーテン」だった。

 

あの時代の中国は、毛沢東による「新しい万里の長城」によって、他の世界とは完全に隔絶されてしまったのだ。「中国と外国との交流を阻止する障害」によって、中国人の耳と目は塞がれ、脳は完全に思考を停止して壊死状態に。であればこそ、中国人は毛沢東のいうことをオウム返しに口にするロボットに大改造されてしまったわけだ。

 

中島は「すでにわたくしたちは、こちらがわにいる」と半ば自慢げに綴るが、中島が熱烈歓迎された「こちらがわ」とは、そういった奇妙な世界だったのだ。だが中島、いや中島ならず当時の訪中者の多くは、そのことに気づこうとはしない。中国の招待者側も気づかせないようにしむけた。些か長い引用だが、その一端を示しておく。

 

「日本から訪中するものは、政治家、実業家、学者、文化人や芸術家、青年、婦人、労働者、農民、など次第に多くなった。これらの人たちは、はじめて新中国の実状をはだにふれて帰ってきた。それぞれの立場でとらえ方はちがったけれども、共通してまず驚嘆している。中国の若いエネルギーにふれ、解放感にひたり、どこへいっても二十代、三十代の若者が先にたって国づくりをはじめている姿は強烈な印象となったのであろう。見るもの、聞くものすべてが新しく感じられた。半植民地の中国を知っているものは、新しい中国で“泥棒がいない”“ハエや蚊がいなくなった”“街がきれいになった”ことを伝えた。古い世代の人たちは、“眠れる獅子”といわれた老大国の中国がいまや全く青年の国に化したと驚く、その変化の原動力を探りまわった。いずれも人間改造というか、中国人が変わったことを認めている。町角でも、工場でも、農村でも、治水工事にそれを見出した」(『日中問題入門』高市恵之助・富山栄吉 岩波新書 1962年)

 

岩波書店が60年安保闘争の2年後に出版した『日中問題入門』なる書名の岩波新書である。ならばページを繰らなくとも、その概要は想像できるというものだが、それにしても、いま読み返してみると何とも気恥ずかしく滑稽が過ぎ、可笑しさを超えて悲しくなってしまう。「日本から訪中」し、中島が主張する国境の「こちらがわ」を旅することで、「政治家、実業家、学者、文化人や芸術家、青年、婦人、労働者、農民」もまた当時の中国人と同じように、耳と目を塞がれ、脳は完全に思考を停止して壊死状態になってしまった。

 

中島が宿泊した広州の愛群大廈は香港の金門酒店と同じように訪中日本人が指定されたホテルだったらしく、「かなりの数の日本人が泊まっていた」。「大ていは貿易関係の人である」が、単なる「貿易関係の人」ではない。当時は「日中貿易が日中友好を促進していったという日本の特殊事情」(『日中問題入門』)にあっただけに、彼らのビジネス活動には、中国主導の日中友好促進という厳格な政治的大枠が嵌められていたということだ。《QED》