【知道中国 2249回】                       二一・七・初五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港131)

もちろん国共内戦前後に上海から香港に拠点を移した企業家はまだまだいるが、数えあげたらキリがない。そこで次に戦後の混乱期に基盤を築き、70年代に飛躍した企業家を挙げてみたい。その大部分は、共産党政権が主導する返還作業に協力したことで、経営規模を急拡大させていったのである。些か突拍子な例えとは思うが、今になって振り返れば、返還とは一面ではオ殿サマと越後屋とに由る「金の卵を産む鶏」をブロイラー化する過程だったようでもある。

「Ⅲ)1960年代以降の香港経済拡大のなかで成長した新興華資」だが、筆頭として「李超人」「香港首富」とも呼ばれる李嘉誠をあげないわけにはいかない。

1928年に広東省潮州の一角である潮安に生まれ、11歳には日中戦争の惨禍を避けて一家で香港へ。14歳で父親を亡くし玩具屋で働くようになり、1950年には手持ちの資金を基にプラスチック加工工場を創立。海外向けのプラスチック製香港フラワーが大当たりし、50年代末期には「香港フラワー王」へ。この頃から不動産ビジネスに進出し、67年の香港暴動を機に売りに出された不動産を買い叩き大量購入に成功。

71年に長江実業を創業し不動産ビジネスに大転換。72年には上場を果たし資金調達に成功するや、73年~74年に土地の大規模購入に乗り出す。かくして蓄えた資金を投入し、70年代末から80年代半ばにかけ、イギリス系企業の買収に乗り出した。どうやら70年代は李嘉誠にとって飛躍への基礎固めの時期だったようだ。

李嘉誠に続くのが広東省順徳生まれの李兆基である。国共内戦末期の48年に18歳で単身香港へ。58年に郭得勝、馮景禧と組んで不動産ビジネスを始める。72年には独立し恆基兆業を創業し、75年には手持ちの物件をテコに永泰建業の経営権を手中に収め、不動産業界で頭角を現し、80年代に入るやM&Aを積極展開することになる。

郭炳湘・炳江・炳聯の3兄弟は父親の郭得勝が起こした新鴻基地産を受け継いだ。郭得勝は孫文の出身地で知られる広東省中山県で生まれ、50年代初めに香港で西洋雑貨の輸入・販売を始める。その後、日本のYKKの総代理店となる一方で、香港の繊維関連ビジネスの将来性に着目し工場建設を見越して不動産ビジネスに転身。58年に李兆基、馮景禧と共に創業した新鴻基企業を、72年に新鴻基地産に改名。その後、2人と袂を分かち独立。以後、安く買い叩く手法で多くの物件を傘下に収める一方、70年代後期からは折からの人口増加に応じたベットタウン開発に着目し業績を伸ばした。

鄭裕彤も広東省順徳出身。15歳でマカオの金売買商の周大福金舗に丁稚奉公。周至元に気に入られ娘の周翠英と結婚し、45年には香港の支店を任される。その後、周大福の経営を引き継ぎ、南アフリカから輸入されるダイヤの3割を扱うまでに。70年代初に将来性を見越して新世界発展を創業し不動産ビジネスに進出。

胡応湘はアメリカのプリンストン大学卒業後の1960年に香港政庁土木局に就職。不動産ビジネスの将来性に着目し、父親で香港最大規模のタクシー会社を経営していた父親の胡胡忠の協力を得て69年に合和実業を創業。72年には上場を果たす。

経済界における親中派の重鎮として知られた霍英東、営利誘拐事件に巻き込まれて行方不明になったままの王徳輝、日本留学帰りの陳啓宗、繊維業から不動産に転じた林百欣などなど、70年代と不動産ビジネスをキーワードにのし上がった新興華資は少なくない。

「Ⅳ)東南アジアで成長した後に、その機能の一部、あるいは海外事業本部機能を香港に移した東南亜華資」だが、タイの陳弼臣、黄子明、謝国民、インドネシアの林紹良、李文正、マレーシアの郭鶴年、郭令燦、李明治、シンガポールの黄廷芳などが代表と言える。

70年代の香港は、彼ら華資の手練手管・権謀術策に格好の舞台を提供したのだ。《QED》