【知道中国 2247回】                       二一・六・念九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港129)

次に「Ⅱ)中国近代化の過程で生まれた民族資本で、国共内戦から共産党政権成立前後に掛けて上海などから香港に拠点を移した大陸由来華資」だが、その典型は栄一族だろう。

一族を遡れば、19世紀末に上海で創業された伝統的金融業の広生銭荘に行き着く。創業者は無錫出身の栄熙泰と徳生と宗敬の二人の息子。20世紀に入り一族は製粉・紡績業に転じ、最盛期の1930年前後には12の製粉工場と9つの紡績工場を傘下に10数万の従業員を擁し、全国の生産量に占める割合は製粉では3分の1、紡績では5分の1。同時期、銀行業にも進出している。

共産党政権成立を機に徳生とその息子の毅仁の系統は上海に残り、共産党政権を嫌った他は香港、台湾、アメリカ、ブラジル、ドイツ、タイなどに生活拠点を移す。まさに共産党政権が一族分散の遠心力となって働き、結果として一族のグローバル(全球)化を後押ししたわけだ。だが、鄧小平が踏み切った対外開放が今度は求心力として働き一族最結集への動きを促すわけだから、まさに“禍福は糾える縄の如し”である。

毅仁は共産党政権下でも民族資本家の代表として厚遇を受け、上海副市長(1957年)、中央政府入りし紡績工業部副部長(59年)などを歴任。文革では窮地に立たされたものの、しぶとく生き残り、79年には鄧小平の推挽で国務院直属の投資会社であるCITIC(中国国際信託投資公司)の董事長に就き、開放路線の先導役を果たした。栄家一族の内外に張り巡らされたヒトとカネのネットワークに着目したからこそ、鄧小平は彼を要職に抜擢したに違いない。93年には国家副主席に就任している。

このように鄧小平=栄毅仁という結びつきによって、共産党政権と栄家は共存共栄の関係を築くことになる。中国人社会における国境も時代も政治イデオロギーも超えた“人脈の妙”を垣間見ることが出来るはずだ。

毅仁の息子である智健が香港にやって来たのは78年6月というから、共産党政権が正式に対外開放に踏み切る半年ほど前である。どう考えても“計算し尽くされた絶妙のタイミング”としか言いようはない。従兄弟の智?・智譲(宗敬の息子)が経営する電子工場でマネージャーとして働き、86年には父親が董事長を務めるCITIC(香港)の経営に。以後、共産党政権と栄一族のネットワークを背景にM&Aを積極展開。返還前後は特区政府行政長官候補に挙げられたこともある。

栄一族に次ぐのは無錫出身の唐殿鎮を祖とする唐一族。無錫では栄一族と並び称せられる繊維業者だった。1922年に染色工場を、35年には紡績工場を創業している。国共内戦時には一族当主であった唐君遠は共産党政権に協力し、工場経営を継続している。朝鮮戦争の際には航空機や大砲を寄付。文革ではさほどの被害を受けることなく、上海市政協副主席を務めた。

唐君遠の子女は上海、香港、アメリカに。なかでもアメリカ留学後に共産党政権下の上海に戻ることなく香港に定着した翔千は叔父が香港で創業した染色・アパレル関連企業を経て上海出身者と73年に半島針廠と南聯実業を創業し、父親に連なる江沢民の要請に応じ深?・東莞・上海・新疆などに進出し、「愛国商人」として中国ビジネスを有利に進めた。

香港には唐君遠の従兄に当る炳源の一族がいる。炳源は父親が創業した紡績・製糸に加え米・粉・油など食品関連企業を引き継いだが、蒋介石政権の経済政策に不満を持ち拠点を香港に移し、1949年に南海紡織廠を創業し、戦後の混乱期に香港産繊維製品の欧米市場売り込みに貢献した第一世代の「紡織王」と呼ばれる。炳源の後継である驥千もまた「愛国商人」で知られた。

共産党嫌いの「愛国商人」が群がる不思議な街・・・それもまた香港なればこそ。《QED》