【知道中国 2245回】                       二一・六・念五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港127)

やはり香港社会を動かしてきたのは、不動産ビジネスを展開する華資である。彼らは互いに競い合う一方で、大枠では各種ビジネスを住み分ける。そうして香港全体が必要とする商品とサービスの価格と市場を有効裡に操作しているのである。

不動産、電力、ガス、バス、フェリーのサービス、スーパーマーケットに並ぶ品々とその価格は華資が定め、そこから得られる利益は華資の財布に入ってしまう。かくて土地が巨大ビジネスの原資となり、華資は雪だるま式に資産を増やしてきたのだ。

これが香港の実態であり、1997年6月30日午後12時59分59秒が過ぎ時計の針が7月1日午前零時を指した後、江沢民国家主席(当時)がイギリス殖民地から中華人民共和国特別行政区への「回帰」を内外に向かって高らかに宣言しようとも変わることはなかった。

 イギリスの殖民地なってから現在に至るまで、基本的に香港には私有地はありえない。政府が競売に付す土地の使用権を売買する。形式的には誰にでも入札の機会は与えられているが、落札するには莫大な資金を用意しなければならないことから、事実上、応札可能家族(=業者)は限られている。上記の華資(特にⅢとⅣが中心)とその周辺の新旧20家族ほど――総計で30にも満たない華資に限られてしまうのである。

彼ら一握りの華資が政府払い下げの「地産」を抑え、「地産」をテコに香港の「覇権」を握る。これが地産覇権のカラクリと言うことになる。まさに19世紀末から20世紀前半の間、官僚と商人が手を組んで金儲けに猛威を振るい、中国に腐敗と貧困と弱体化をもたらした大きな要因とされる「官商勾結」の構図、現代では「権貴体制」と呼ばれる権力と財力とが奇妙に合体したそれだ。

判り易くいえば「越後屋、ソチも相当のワルよのう」「いえいえ殿サマ、滅相もございません」「うふ、うふ、うふふふふ・・・ブハッ」のアレである。ここで東映京都太秦撮影所製時代劇風にキャステイングするなら、テッパンは殿サマは山形勲で越後屋は上田吉次郎だろう。殿サマは進藤英太郎でもいいが進藤と上田ではアクが強すぎで、双方の演技が殺し合いしかねない。二本柳寛の殿サマに進藤の越後屋も捨て難い。

閑話休題。

このような華資は骨の髄から「強権貪権不知足(強権強欲、足るを知らず)」である。そこで彼らは不動産開発で手にした莫大な資金を、金融・流通・港湾・輸送・製造・衛星・通信・IT・観光・メディア・農業・電気・ガスなど、儲かると踏んだビジネスに惜しげもなく注ぎ込む。富が富を生み、富は権力を引き寄せる。

その勢いは公共事業にまで及ぶ。まさか将来、香港では空気までもが「官商勾結」における投機対象になるなどということはないだろうが・・・。些か極端に表現するなら、一般の香港住民が支払わなければならないカネは、回りまわって香港の越後屋の懐に還流されてしまう仕組みである。

確かにイギリス殖民地時代も「官商勾結」の構図は見られたが、それが野放図に巨大化するのは香港返還が具体的政治日程に上り始めた80年代後半以降のことと敢えて指摘しておきたい。その要因を香港返還に関する中英協議の欠陥に求める声もあるが、その当否は扨て置き、香港を手中に納めた30に満たない家族(華資)は、かくて北京の権力中枢との“蜜月関係”の維持に腐心するようになる。

やや強引に表現するなら、殖民地も共産主義もへったくれもない。やはり魚心あれば水心である。返還前に内外に向けて鄧小平がブチ上げた「香港の繁栄の維持」とは、香港の越後屋と中南海の殿サマのための掛け声でしかなかった。

1970年初頭からの「香港の黄金時代」が越後屋を育んだのではなかったか。《QED》