【知道中国 2010回】                      二〇・一・初二

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(28)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 「支那に對する露骨なる侵犯が、決して自國の利益の爲めならざるを自覺し、漸く其の鋒鋩を収め、經濟的援助の美名に隱れて、其の覇圖を行はんとするの手段を取るに至つた」。その「具體的發現は即ち其の運動となつて表れて來た」のである。

 かくて「愈本論に入り、鐵道鐵道利權爭奪の跡」を追うことになるが、「長江の流、?々として千里の沃野を洗ふ邊、是れ列強野心の蟠る所、其の間に在りて、嶄然一頭地を抜けるものは誰ぞ。大英帝國即ち是れである」と、先ずは「揚子江流域に於ける英國」について語りはじめた。

 イギリスは17世紀初頭から「志を支那の南方に致さん」としていたが、先行するポルトガルの影響力が強く、思うようには振る舞えなかった。ところが「鴉片戰爭が釀するや、英人は茲に端なくも、一大飛躍を爲すべき基礎を得たのである」。次いで「アロー号事件」とも呼ばれる第2次アヘン戦争勝利などを機に「上海より進んで、揚子江内部に侵入する好機」を逃さず、遂に「今日支那貿易の覇權を掌握し、揚子江流域に於て確固たる勢力を得た」。さらに1876年の雲南省での「英國視察員殺害事件」を機に高圧的態度で交渉に臨み、「重慶に商業視察員を置き、以て四川省の調査を行はしむるの承認を得たのである」。 

つまり「英國は既に早くより、揚子江流域に於て、一種優越の地歩を占め、香港、上海を中心として、盛んに、其の活躍を續け來たりるが」、当時の目的は通商貿易にのみあった。

だが日清戦争終結後の1898年に「租借地獲得競爭時代」が始まると、各国は先を争って「支那に對して利權の強要をなす」ことになる。そこでイギリスは「北に於て威海衞を、南に於ては九龍の租借を要求し、同時に清國をして、揚子江流域の不割讓を約せしむに至」り、以後は鉄道敷設に力を注ぐことになる。なお、上塚は「九龍の租借を要求し」とするが、正確には九龍の外れに位置する界限街(バンダリー・ストリート)から深?河までの間の土地に周辺の島嶼部を加えた新界を指す。

「英國の公然たる作戰計畫は、揚子江流域及廣東を經て、香港に輻合する、商業上の優越權を、其の掌裡に収めんとするに在つた」。そこで先ず「上海及廣東を基點とする短距離の諸鐵道の敷設權を獲得し」て、沿線の利権獲得を狙った。それが「滬寧(上海南京)、津浦(天津浦口)」、及廣九(廣東九龍)の三鐵道」である。

だがイギリスの野望は、この程度で納まるものではない。「揚子江流域一帶の地を、完全に自己の掌中に収めんとするこそ、其の不斷の希望である」。

当時、イギリスの最終的狙いは、揚子江流域に加え中国南部を包括し、「遠く印度と揚子江流域とを連絡せしめん」とするところにあった。そのために「滬杭甬鐵道、沙興鐵道、?湘鐵道、?緬鐵道等、幾多重要なる長距離線の利權を獲得し、茲に英國上下多年の宿望を達するに至つたのである」。そこで上塚は各路線について詳細な調査結果を綴っているが、聊か冗長になるので、殊に筆者が関心を持つ「?緬鐵道」についてのみ見ておくことにする。

 この路線はミャンマーを貫流するヨーラワディー河(イラワジ河)の上流に位置し、雲南省との境に近いバーモを起点にして、雲南省西南端の騰越、大理を経て昆明に達するもので、「言ふ迄も無く、英國多年の宿願たる緬甸揚子江鐵道の最西端を成すものである」。

 同路線開設で、「英人が多年幾多の人命と、鉅萬の費を投じ、多大の努力を以て經營し來りし印度と揚子江流域との連接は、茲に成り、英國の勢力は啻に、揚子江下流よりするのみならず、緬甸よりして、揚子江上游の地に向ひ、斯くて、英國は、揚子江全域に亘る通商貿易の覇權を掌握し、同時に優越なる政治的地歩を確保し得べきや明かである」。《QED》