【知道中国 1534回】                       一七・二・念二

――「支那ハ困リタ國デス何處マデモ亡國ノ兆ヲ帶ビテ居マス」(戸水1)

戸水寛人『東亞旅行談』(有斐閣書房・東京堂 明治36年)

 

戸水寛人(文久元=1861年~昭和10=1935年)の名前を聞けば、東京帝国大学法科大学教授当時、明治37(1904)年の日露戦争開戦に当り富井政章らと共に時の桂太郎首相・小村壽太郎外相に向けて「七博士意見書」を発表し、ロシア帝国に武力進攻してバイカル湖以東の東シベリアの占領を強く主張したことだろう。時に「バイカル博士」とも呼ばれたとか。尚、原文のカタカナ部分をひらがなに改め、漢字は正字のままとした。

 

巻頭に置かれた「序」には、本書は明治35(1902)年9月から11月の間、「滿州蒙古北清朝鮮を漫遊し」た際の「記事」とある。日露戦争直前という時期、しかも東京を出発し、敦賀からウラジオストック、グロデコフ、ハルピン、旅順、「ダルニー」、旅順、芝罘、牛荘、錦州、山海関、秦皇島、山海関、天津、北京、張家口、「ハノルパ」、「トウタイ」、「チャーカントラハイ」、張家口、北京、天津、芝罘、仁川、京城、仁川、釜山、長崎、門司、神戸を経て新橋するという訪問地から考えれば、この旅行での見聞が「七博士意見書」に繋がったと見ても間違いないだろう。

 

「序」には、「青年志士に向ては之を讀んで益す心を海外に用ひられんことを希望し」、本書を読んで「大鵬萬里の志を立てらるヽならば是望外の幸です」と記されている。であればこそ、どうやら本書は単なる紀行文というよりは、海外に向けて「大鵬萬里の志を立て」る「青年志士」へのアジテーションでもあるような。

 

次いで、本書出版直前に発生した旅順でロシアとの間に裁判権問題に関し、「若し日本の政治家が私の議論を用ひずして兵力を用いることを止めて唯言論を以て露西亞と爭ふ積りならば或は失敗に終るでせう」。また、「若し日本の政治家が兵力を用ふる積りならば旅順の裁判權問題の如きは誠に區々たる小問題です」と記しているところからして、対ロシア主戦論を掲げた「七博士意見書」の出発点は、あるいは本書、というより「滿州蒙古北清朝鮮」の「漫遊」にあったと見做して強ち間違いはないだろう。

 

それにしても「若し日本の政治家が私の議論を用ひずして兵力を用いることを止めて唯言論を以て露西亞と爭ふ積りならば或は失敗に終るでせう」の一言からは、北方領土問題の解決に具体的有効策を打ち出し得ず、ロシア側の振る舞いに一喜一憂するしか能のない現在の日本の姿を予見しているようにも思える。当時も、「唯言論を以て露西亞と爭ふ」ことで事態の解決ができると考えていたオメデタイ政治家がいたわけだ。また当時は東京帝国大学法科大学教授でありながら「若し日本の政治家が兵力を用ふる積りならば」などと公言できたという点から考えて、今では想像だにできそうにない雄々しく覇気に溢れた時代だったことが判る。やはり当時も今も「露西亞と爭ふ積りならば」、「唯言論を以て」するだけでは事態は解決に向って動かないということだ。

 

さて「東京帝國大學法科大學敎授/バリストル、アト、ロー/法學士法學博士 戸水寛人述」と記された本文に移るが、今回の旅行目的は「學術の材料蒐集に在る」が、「學術の材料を得たと」しても簡単に研究成果が生まれるわけはない。だから、研究の「結果は他日之を發表することと致し」、「唯今は學術以外にも渉りて平常見聞した所をざつと御話致しませう」と、『東亞旅行談』の旅行談たる由来を記している。とすると、「他日之を発表するとした「之」が「七博士意見書」に変じたということだろうか。

 

それにしても対露強硬論の持ち主の目には、日露戦争直前のシベリア東部や満州をどのように映ったのか――こんな視点から、本書を読み進むのも一興だろうと考える。「強盗が澤山居る」というウラジオストックに上陸して、「初から人を殺」すその手口から、「卑怯と殘忍は露西亞人の性質でありませうかしらぬ」とは、さて疑問なのか。断言なのか。《QED》